■関東の争乱と街道の移り変わり
室町時代、鎌倉幕府を滅ぼした足利家は、全国の統治を進めるにあたって、当初数多くの課題を抱えていました。
それは、執権(しっけん)北条家などの旧幕府勢力や、幕府を開くにあたり対立した後醍醐(ごだいご)天皇に味方する武士団が数多く存在していたためです。
なかでも、多くの武士団がいた関東では争乱が続き、関東を治める機関「鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)(後の鎌倉府(かまくらふ))」を設け、関東へのにらみを効かせていました。
鎌倉府の長官「鎌倉公方(かまくらくぼう)」には当初、室町幕府の2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)の弟足利基氏(あしかがもとうじ)が着任し、関東の統治を進めました。
基氏が鎌倉公方に在職していた期間は、南朝方に味方していた新田義興(にったよしおき)の鎌倉への攻勢や、鎌倉公方を補佐する関東管領(かんとうかんれい)の畠山国清(はたけやまくにきよ)の乱、下野(しもつけ)の宇都宮氏、芳賀(はが)氏と対立により生じた苦林野(にがばやの)合戦など、関東ではたびたび争乱が起きていました。
基氏は、戦地への進軍や、争乱に備えるための前線基地となる入間川御殿に着陣するにあたり、軍勢を進める行軍路として鎌倉街道上道(かみつみち)を大いに活用して、争乱の時代を生き抜きました。
鎌倉街道上道の交通に変化が生じてきたのは、15世紀中頃から16世紀前半にかけてです。15世紀中頃、室町幕府と鎌倉府の間で対立が生じ、室町将軍家と鎌倉公方の間で争乱が生じました。享徳(きょうとく)の乱と呼ばれる大きな争乱により、鎌倉を追われることとなった5代鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)は、下総国古河(しもうさのくにこが)(現在の茨城県古河市)に拠点を移し、幕府方と対立を続けました。
そのため、関東における鎌倉の政治的重要性の低下に伴い、鎌倉街道の主要道路としての役割もうすれていきました。毛呂山町を通る鎌倉街道上道沿いに形成された苦林宿(堂山下(どうやました)遺跡)も、16世紀初頭以降、出土する遺物の減少から集落の衰退が確認されていて、鎌倉街道上道の役割の低下が集落の衰退につながったものと考えられています。
一方、この争乱のなかで、川越や江戸、岩槻には新たな城が築かれ、古河とこれらの諸城を結ぶ街道が整備されていきました。これらの街道は、市街地から延びる大型道路として整備され、現在も活用されています。
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