かつての山間部の産業 製炭業
かつての毛呂山西部の山間部では、豊かな森林を利用した山の仕事が盛んに行われ、製炭業が主要な産業でした。
製炭の作業は炭材を集めることから始まります。カシ、ナラ、クヌギなどの堅い木は手に入りにくく、高級品として江戸・東京への出荷用に用いられました。また、その他の雑木は自家用に用いられました。なお、集めた原木は炭窯で30~40時間ほどかけて焼かれます。
炭窯で焼かれる炭には、クロケシ(黒炭)とシロケシ(白炭)があります。クロケシは400~700度の温度で焼き、焼けた炭をそのまま炭窯のなかで消火して作ります。毛呂山では主にクロケシが作られていました。
一方、シロケシは800度以上の温度で焼き、焼けた炭を炭窯からかき出し、消し粉をかけて消火して作るものです。シロケシは固くて重く、「ビンチョウタン」と呼ばれ、高値で取り引きされました。
作られた炭の多くは江戸へ出荷されました。生産量は江戸時代末期の記録で、阿諏訪村が2900俵、滝野入村が1600俵、大谷木村が3000俵、権現堂村が2500俵、宿谷村が1300俵と大量でした。出荷方法は川越の新河岸まで馬で運び、新河岸川の舟運を利用して江戸へ送りました。
明治・大正時代も炭の生産は衰えることはありませんでした。大正5年(1916)に入間薪炭(しんたん)同業組合が設立され、改良窯の開発や製品検査などが行われ、品質の向上をはかりました。昭和時代になると埼玉県が製品検査を行うようになり、技術改良の指導も行われ、各地で炭焼きの講習会が開かれました。
また、第2次大戦下に軍需用材の供出(きょうしゅつ)で需要が増え、生産は伸びました。
その後、1960年代にエネルギー資源が石油に変わったことにより、毛呂山での製炭業は衰退していきました。現在、町内で炭焼きを見ることはほとんどありませんが、山間部の炭窯から煙が立ちのぼっていた風景を思い出して、懐かしさを感じる人もいるのではないでしょうか。
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