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歴史散歩 第359回

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埼玉県毛呂山町

毛呂山町の養蚕(ようさん)

明治時代から昭和時代に毛呂山町域で盛んに行われていた養蚕。当時はあちらこちらに蚕(かいこ)の餌(えさ)となる桑(くわ)の畑が広がっていました。養蚕とは、カイコガの幼虫・蚕に桑の葉を食べさせて飼育し、蛹(さなぎ)になる時に作る繭(まゆ)を収穫する一連の作業です。
毛呂山町の養蚕の歴史は、江戸時代中期まで遡(さかのぼ)るといわれています。江戸時代には、現在の小川町や越生町、飯能市といった外秩父山地の裾野(すその)にあたる地域では、養蚕と絹織物を織る機織(はたおり)で栄えていましたが、当時の毛呂山でも小規模ながら養蚕と機織が始まっていました。
明治時代に入ると、養蚕の技術が普及・発展し、明治26年(1893)8月には、旧山根村の滝ノ入に泉合資(いずみごうし)会社が設立されました。周辺地域で産出される生糸(きいと)を原料にして、主に羽二重(はぶたえ)といわれる絹織物を生産し、海外に輸出していました。泉合資会社の絹織物は内国勧業(ないこくかんぎょう)博覧会に出品し、何度も入賞していることからも、品質が高かったことがうかがえます。明治36年(1903)には、工場を旧毛呂村の毛呂本郷に移転し、資本金10万円、従業員200名の大工場に発展しました。ところが、明治41年(1908)に経済界の不振が事業に影響を与え、工場は閉鎖することになりました。
しかしその後も、現在の毛呂山町域では養蚕が盛んに行われ、明治45年(1912)には、養蚕農家戸数が全農家戸数の約81パーセントにもなりました。
大正時代になると、第一次世界大戦の影響で主要農産物の価格が下落したことから、農家の収入源は養蚕に頼るようになりました。そこで、今まで以上の収入の増加を図るために、蚕種(さんしゅ)の品種改良による品質向上と、蚕室(さんしつ)や蚕具(さんぐ)の改良による作業の効率性が高められました。その結果、大正15年(1926)頃には、旧毛呂村では繭の生産額が米麦(べいばく)の2倍にもなりました。
昭和時代に入ってからも、繭の価格の浮き沈みはありましたが、養蚕が農家の副業として貴重な現金収入になったことに変わりはなく、昭和50年代ごろまで多くの農家が養蚕に携わっていました。

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