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歴史散歩 第360回

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埼玉県毛呂山町

林業と水運~山師(やまし)と筏師(いかだし)の仕事~

新緑の時期が過ぎ、緑が増す毛呂山町西部の外秩父山地を彩る樹木の多くは杉や檜(ひのき)です。これらの樹木は、主に家の建築などに用いる材木として植えられました。
毛呂山町では昭和40年代頃まで、山間部の斜面(しゃめん)地で樹木を育て、伐採(ばっさい)する林業が盛んに行われていました。
『山師』と呼ばれる林業を営む人々は、植林(しょくりん)から始まり、枝打ち、間伐(かんばつ)、下草(したくさ)刈り、伐採、造材(ぞうざい)、木材の搬出(はんしゅつ)までの最低30年から40年かかる工程を、機械を使わずにノコギリなどを使ってすべて人力(じんりき)で行っていました。
また、様々な工程の中で斜面での樹木の伐採や木材の搬出は、命を落としかねない大変危険な作業でした。特に木材の搬出は伐採以上に神経を使う作業でした。そのため、搬出作業の際に安全に搬出する技術と山の状況に合わせた搬出方法を選べる経験が、山師には求められました。
自動車や鉄道による陸上輸送が発展する以前の明治時代末頃まで、外秩父山地の山々で生産された木材は、山間部からふもとに搬出され、筏を組み、入間川や高麗川、越辺川などを使って運びました。江戸の西方(にしがた)の川から運ばれていたことから、江戸時代から木材は『西川材』と呼ばれました。
西川材の運送は、『筏師』と呼ばれる川での水運を営む人々によって担(になわ)れていました。筏師は筏に乗り、巧(たく)みに筏を操作して木材を流送(りゅうそう)し、江戸(東京)まで運びました。途中の越辺川沿いの川角と苦林地区には、『筏屋(いかだや)』の屋号を伝える家が残っています。筏屋では筏師が休息したり、筏の組み替えをしたりしていました。
歴史民俗資料館で現在開催中の企画展『川とともに~川と人々の営み~』では、毛呂山に生きた人々の営みと川との関わりについて紹介しています。その企画展のテーマの一つに、越辺川でかつて行われていた西川材の水運について紹介しています。この機会にぜひ、企画展をご覧ください。

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