■突然現れた古墳時代のムラ~謎の島矢(やじま)遺跡~
原始・古代の人々は、生活しやすい場所を選んで、自然とともに暮らしていました。
毛呂山町前久保では、縄文(じょうもん)時代のムラの跡が発見され、大量の土器や石器が出土しました。この遺跡は白綾(しらあや)遺跡と呼ばれ、越辺川(おっぺがわ)と大谷木川の合流点に向かって広がる低地に突き出た台地の先端にあります。水の確保と日当た)りの良さが住居を構え、定住する決め手だったのでしょう。町内には縄文時代の大規模な遺跡が、ほかにも確認できます。
川があって日当たり良好、縄文人向きの毛呂山町でしたが、弥生(やよい)時代の人々の生活の痕跡(こんせき)は極端(きょくたん)に減少し、町内120を超える遺跡のうち、僅(わず)かに4か所しか確認されていません。その後の古墳時代のムラの跡も限られています。なぜでしょうか?
弥生時代になると、稲作が日本各地で行われるようになります。毛呂山町の河川沿いには、今でこそ水田に適した耕地が広がっていますが、弥生人にとって、山に近く、幅の狭い低地よりも、さらに下流の高麗川(こまがわ)と葛川(くずがわ)、越辺川が合流する現在の坂戸市入西(にっさい)地域のような肥沃(ひよく)な低地を生活の基盤に選んだのでしょう。入西地域では、弥生時代から古墳(こふん)時代の遺跡が多数確認されています。
地形的に稲作には向かなかった原始・古代の毛呂山町でしたが、今から1600年程前に、忽然(こつぜん)と現れ、忽然と消えた古墳時代のムラがありました。昭和61年度に、現在の埼玉平成高校・中学校のある場所で発見された矢島遺跡です。遺跡は葛川沿いの低地を見渡す僅(わず)かに高い場所にあり、稲作のムラだった可能性があります。発見された16軒の竪穴(たてあな)住居跡の床には、貯蔵(ちょぞう)用の穴が掘られていました。赤色(せきしょく)を帯びたお埦(わん)や脚付(きゃくつ)きの高坏(たかつき)と呼ばれる皿状の器(うつわ)、小型の壷(つぼ)等が出土しました。
このころは、行田市の埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山(いなりやま)古墳等巨大前方後円墳が造られ、地方にも強大な権力を持った豪族(ごうぞく)が現れた時期です。1600年程前のムラの跡は、入間郡内でも少なく、なぜこの地に突如(とつじょ)営まれたのか謎です。
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