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自治体の皆さまへ

未来へつなぐ平和への思い

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埼玉県蕨市

終戦から79年がたち、戦争を知る世代は少なくなりました。しかし、戦争の悲劇を風化させてはいけません。今月は、戦争当時を蕨で過ごした人へのインタビューを通じ、平和の尊さについて考えてみたいと思います。

軍需工場が複数あった蕨は、昭和20年4月から5月にかけて、3回にわたって空襲に見舞われました。1回目は、4月12日の正午頃。錦町5・6丁目付近からさいたま市の辻にかけて16個の1トン爆弾が投下されました。2回目は、13日の夜から14日の朝にかけて、爆弾と焼夷弾(しょういだん)の波状攻撃により、南町2・3丁目付近から現在の北小学校までの約1Km、幅200~300メートルの広範囲が火の海となりました。3回目は、5月25日の午後10時頃。錦町4丁目付近の民家3戸が焼失しました。これら3度の空襲による被害は死者50人、罹災(りさい)した家屋は400戸に上り、県内では熊谷に次いで2番目の被害となりました。
同年8月15日に戦争が終結してから79年がたちました。この間、日本では平和な日々が続いていますが、現在も世界各地では戦争や紛争が起きています。戦争を直接知る世代が少なくなった今、戦争の悲惨さを語り継ぎ、風化させないことが必要です。以下では、戦時中から蕨にお住まいの岡田國夫(おかだくにお)さんのインタビューを紹介します。私たち一人ひとりが、過去に我が国で起きた戦争のことを知り、蕨市平和都市宣言(下記)に示した平和への願いを新たにしていきましょう。

■蕨市平和都市宣言
昭和20年8月、広島、長崎に人類初の原子爆弾が投下され、早くも40年の歳月が流れました。
その間、唯一の被爆国である我が国は、恒久平和を崇高な理念として憲法に掲げ、自由と正義を愛し、世界平和に寄与してきました。
しかるに今、世界の超大国を中心とした核保有国が競って核軍備拡充を図っていることは、まことに脅威であり、この核軍拡競争に対して、世界のいたるところで、平和希求の叫びがとみに高まりつつあります。
このような国際情勢の中で、戦争は人間が起こすものであり、また人間の力によってこれを防ぐことができることをしっかりと心に刻み、平和で豊かな社会を次の世代に引き継いでいくことが、現代に生きる我々の責務であると考えます。
私たち蕨市民は、平和憲法の精神を守る立場から、非核三原則が厳守されることを強く希望し、世界のあらゆる国の核兵器の速やかな廃絶を願うものであります。
蕨市は、市民の平和を願う心を結集し、ここに「平和都市」であることを宣言いたします。
昭和60年9月9日 蕨市

■Interview 戦争の記憶
岡田 國夫さん(91歳・南町1丁目)

「当時のことを知っている人も、もう少なくなってしまいましたね」と話す岡田さん。少年時代を過ごした戦時中の蕨のことを話していただきました。

○学校生活にも戦争の影響
私は昭和8年に、当時の下蕨、現在の南町1丁目に生まれました。それから91年間ずっと南町で暮らしています。
戦時中は蕨第一国民学校(現・北小学校)に通っていましたが、私が高学年になる頃には戦争が激しくなり、まともに授業を受けた記憶がありません。食糧不足の時代だったので、男子児童は現在の市立病院の辺りにあったサツマイモ畑やたんぼで農作業に従事したり、また、終戦間際になると、空襲警報が発令されることも頻繁だったので、その度に集団下校を余儀なくされたり、落ち着かない日々を過ごしていました。

○今も耳に残る幼い叫び声
夜は夜で、10時頃になると、毎日のように空襲警報が発令され、解除されるのは朝の3時、4時。庭に2つ作った防空壕(ごう)で、家族や親戚と何度も夜を明かしました。幸い、我が家は空襲の被害を受けませんでしたが、狭い防空壕に6、7人で肩を寄せ合い、長時間過ごすのはとても息苦しいもので、私は耐えられなくなって防空壕を抜け出し、近くの畑で布団をかぶって過ごしたりもしていました。そうすると、ときどき頭上をかすめるほどの低空をB29が飛んでいくのが見え、たいへん恐ろしい思いをしたものです。
当時、今の南町2~4丁目にまたがる地域は三和町(みつわちょう)といい、軍需工場などの社宅が建ち並ぶ、大きな住宅団地でした。子どものいる家が多かったので、昭和20年4月の空襲によってこの地域に大きな火災が起きた時には、私より小さな子どもたちが焼け出され、「お父さん!お母さん!」と親を探して泣き叫んでいる姿を数多く目にしました。その悲痛な声は、80年近くたった今でも耳に残っています。

○平和という幸運を未来へ
終戦から長い年月がたって、今では戦争を知る人も減り、当時のことを話す機会も少なくなりました。しかし、世界に目を転じれば、ウクライナへの軍事侵攻など、いまだに戦争はなくなっていません。戦争で負傷した人を報道で目にすると、戦時中のことがまざまざと思い出されます。そして、日本では現在まで平和が続き、戦争を経験していない世代が多くなっているということは、あらためて本当に幸せなことなのだと実感します。
今、ひ孫の3人がちょうど戦争が激しかった頃の私と同じ年頃です。未来を生きる彼らのために、これからも平和な日々が続いてほしいと強く願っています。

市内の公民館などでは、平和を願う催しを開催しています(本紙お知らせ版10ページ)。ぜひ、ご参加ください。

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