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行田歴史系譜368

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埼玉県行田市

■資料がかたる行田の歴史68
▽忍沼と共にあった「ぬし」
来年の干支は「巳=蛇」ですが、行田の街中に蛇の話が伝えられていたことをご存じでしょうか。
忍城本丸跡の東側には、かつて忍沼と呼ばれる広大な沼地が広がっていました。城があった時代には堀の一部として機能していたもので、郷土博物館に展示されている模型で幕末期の様子を見ることができます。
大澤俊吉著『行田の伝説と史話』によると、昭和初期までこの忍沼には「沼のぬし」の大蛇が住んでいると言われていたそうです。「沼の葦(あし)が倒れているのは大蛇が通った跡だ」「沼で魚を獲とっていたら大蛇が出てきたので逃げてきた」など、いくつもの話が記録されています。蛇は古くから水と結び付けられ、水神(すいじん)や水田耕作神(すいでんこうさくしん)として信仰されてきました。水に恵まれた行田のまちに蛇の言い伝えがあったこともうなずけます。とはいえ、例えばニシキヘビのような本物の大蛇が当時生息していたとは考えにくく、信仰を背景にした想像力も働いていたと考えられます。
忍沼は、明治時代以降街の発展と共に少しずつ埋め立てられ、姿を変えてきました。特に大きな埋め立てが行われたのは大正10(1921)年です。忍町尋常高等小学校の校舎を建設するため、広い範囲が埋め立てられました。この場所には現在、市役所や産業文化会館が建っています。
ところで、この埋め立てには後日談があります。当時「沼と一緒にぬしを埋めてしまった祟(たた)りで、小学校の遠足や運動会では必ず雨が降る」といううわさが広まったというのです。埋められてしまう「沼のぬし」を見た人がいたか、本当に必ず雨が降っていたか、などを確かめることは今となっては困難ですが、蛇は雨を呼ぶ水神であり、粗末に扱うと悪いことが起きるに違いない、という共通認識を当時の人々が持っていたことがうかがわれるエピソードです。
忍沼は昭和40年代後半までにほぼ埋め立てられ、その一部が水城公園として現存しています。「沼のぬし」も生きたうわさ話の中ではなく、記録の中に登場するものに変わりました。
(郷土博物館 岡本夏実)

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