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行田歴史系譜359

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埼玉県行田市

■資料がかたる行田の歴史59
▽若小玉の「天王様」と若者たち
「天王様(てんのうさま)」といえば、本町通りで現在行っているお祭りを思い浮かべる方も多いでしょう。しかし、今回紹介するのは、若小玉地域で単独の祭礼に当たります。
『埼玉の神社』勝呂(すぐろ)神社の項目を見ると、若小玉の「天王様」は、かつて小字(こあざ)の中村耕地にあった八坂(やさか)神社(現在は勝呂神社に合祀(ごうし))の祭礼であったことが分かります。戦前まで7月14日に「天王様」があり、若い衆の担ぐ神輿(みこし)が家々の庭先を練りました。合祀後も祭礼の前日には旧社地に注連縄(しめなわ)が張られ、神輿が安置されたようです。戦後、神輿の修復に莫大な費用を要することから立ち消えとなり、祭礼も途絶えてしまったと伝わります。
竹内家文書(郷土博物館蔵)には、文化4年(1807)から文化10年にかけての「天王御祭礼入用控」という古文書が伝わっています。これらは毎年の祭礼費用の収支が書き上げられた帳簿です。いずれも6月の吉日を選んで書き始められており、祭礼の約1カ月前から準備が開始されていたことが分かります。
これらの帳簿の表紙や裏表紙には「若小玉村間之道(あいのみち)若者共」と墨書きがあります。間之道は若小玉の小字の一つであり、そのコミュニティーに属する若者たちが祭礼実施の主体であったことを物語ります。帳簿には毎年20人ほどの農民の名前があり、その役割を持ち回りで担当し、祭礼を実現に導いていたのです。
「天王様」の暴れ神輿は流行(はやり)病を追い払い、人々の無病息災を願う意味合いがありました。江戸時代においても数十年おきにさまざまな疫病(えきびょう)が流行し、そのたびに多くの人々が犠牲になりました。「天王様」と同じ疫病除(よ)けを目的とした暴れ神輿、獅子舞(龍頭舞(りゅうとうまい))、祈禱(きとう)は、このような疫病との闘いの中で地域社会が生み出し、地元の若者たちが守り抜いてきたハレの行事といえるでしょう。
(郷土博物館 澤村怜薫)

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