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自治体の皆さまへ

今、伝えたい私の戦争体験(1)

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埼玉県越谷市

市では、「越谷市平和都市宣言」の趣旨を踏まえ、平和に対する思いを深めるとともに、「戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさ、平和の尊さ」を後世に伝える事業を実施しています。
今号では、市内在住で「平和の語り部登録ボランティア」として活動している横田智恵子さんの著書『十二歳の戦争おばあちゃんが語ります』および体験談から、空襲に遭い、高等女学校1年生のときに長崎原爆の被災者救護にあたった体験等を紹介します。

■越谷市の平和への取り組み
・越谷市平和都市宣言の制定(平成20年11月3日)
・平和首長会議への加盟毎年の取り組み
・広島平和記念式典へ市内中学生派遣
・平和展、平和講演会の開催等

太平洋戦争は、4年という短い間に日本中で多くの方が空襲で亡くなり、戦場で命を落としました。これが「戦争」です。生き残っている私たちは、今の平和な暮らしに感謝もせず、亡くなった人のことや、苦しかったことも忘れがちです。忘れてはいけないですよね。
私は長崎県佐世保市で生まれ、家族は父、母、姉3人、兄、私の7人。昭和20年6月、12歳のときに佐世保市で空襲に遭い、家や友達も亡くしました。その年の8月15日が「終戦」です。
終戦から4カ月後だと思いますが、佐世保を訪ねると、家の跡にはアメリカ兵のためのハウスが建ち、子どもが庭で楽しそうに遊んでいました。もうこの地には帰れないかと思うと、とても悲しかった。

■昭和20年6月28日夜半 B29(爆撃機)三十数機
この日はどしゃ降りで、敵の飛行機は来ないだろうからゆっくり眠ろうと父の言葉で、11時ごろまでおしゃべりして床についた。「早く起きろ、早く逃げろ」父の声で飛び起きた。急いで服に着替え、姉の「防空壕(ぼうくうごう)に逃げなさい」という声を後ろに玄関の戸を開けた。なんと夜中なのに真っ赤だ。空襲警報のサイレンがけたたましく響いている。敵機からの焼夷弾(しょういだん)は遠慮なく落とされ、火の玉があちこちに飛んでくる。10メートルほど離れた防空壕にようやく着いた。防空壕の隙間から外を見た。我が家と貸家が真っ赤に燃えている。「ここは危ない、上のトンネルに逃げろ」誰かのどなり声で外に出て、足元も悪くゴロゴロ石の坂道を歩いて上を目指した。夜が明け、下に降りると町じゅう焼け野原だ。見渡すかぎり、何一つない。後日、親族が待つ長崎県大村市に行くことが決まった。
佐世保駅は人、人、人である。汽車が時間どおりの運行でなく、何時間、何日待つのか。2日後、窓から車内に乗り込み、大村駅で降りることができた。私は、大村高等女学校1年に編入することができた。

■昭和20年8月9日 長崎に新型爆弾
午前10時過ぎごろ、突然、警戒警報のサイレンも鳴らないのに、敵機のごう音が頭の上でと思うほど、近くにすさまじく響いた。慌てて裏庭の防空壕に飛び込んだ。けたたましく空襲警報のサイレンが鳴り響いた。どのくらい入っていたのか、飛行機の音が全然聞こえなくなった。「警戒警報解除」の知らせもない。
外はなまぬるい風が吹いている。空一面に広がる真っ黒い雲がいつまでももくもくと大きくなり、異様な形の「大きのこ」に変わっていく。「また何が起こるやもしれぬ。今のうち、昼ごはんを食べよう」父の言葉で家に帰り、いつもの芋がゆをすすった。

■被災者の救護
「女学校の伝令」だという上級生が我が家に来た。「女学生は大村駅に至急集合です」「長崎の被災者が大村に来るらしいから手伝いです。早く」私は駅へと急いだ。
小さな大村駅は、人でごった返していた。多くの女性たちが横たわり、息も絶え絶えの人ばかりだった。肌が焼けてぼろぼろになり、その下に皮膚が剝がされて、ピンク色の肌があった。真っ赤な血が吹き出て、目だけがぎょろぎょろしている人もいる。死んだように動かない人もいる。陸軍兵や消防団の人が放り投げるような状態で列車から降ろした被災者を、トラックまで連れていくことを繰り返した。被災者は大村陸軍病院へと運ばれていった。それは夕方まで続いた。夜、夢で「痛い、痛い」という声がして、目が覚めた。
夜が明け、貧しい朝食を早めに済ませ、駅に向かうと、ずいぶん待って貨物列車が着いた。被災者が降ろされたが、昨日の半分ほど。なんだか、ほっとした。

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