【約四百年の歴史を誇る鴻巣びな】
鴻巣に人形づくりが伝えられたのは、一説では安土桃山時代の天正年間(1573年~1592年)といわれ、当時は土で形を作って焼く素朴な土人形が製作されていました。
江戸時代中期になると、桐などの木粉に糊を混ぜて練り固める練り人形に変わり、女雛と男雛が対になった人形が作られるようになりました。その頃から「鴻巣びな」として知られるようになり、江戸の十軒店(日本橋)、越谷と合わせて「関東三大ひな市」と呼ばれるほどに。特に着物の着せ付けは関東一という評判で、江戸の職人が競って修行にやってきたほどでした。
その後、明治36年の勧業博覧会での三等受賞、皇室への献上など、高度な技術と優れた品質で「鴻巣びな」の名が全国に知られるようになりました。当時の県内人形業者数は越谷6軒、大沢(現在は越谷)3軒、岩槻3軒に対し、鴻巣は31軒、職人300人という記録があることからも、その盛況ぶりがうかがえます。
現在も中山道沿いには人形作りに関する店舗が並び、江戸時代から続く「鴻巣びな」の伝統を脈々と受け継いでいます。
■全国でも珍しい「人形」の地名
全国で「人形」という地名(登記の町字名)は「東京都中央区日本橋人形町」と「鴻巣市人形」の2例のみで、日本橋は人形浄瑠璃にちなんだ名称のため、「人形生産地」由来の名称は鴻巣のみとなります。
現在の「鴻巣市人形」の大部分は、江戸時代、鴻巣宿ではなく上谷新田村で、明治22年(1889年)に鴻巣宿・上生出塚村・下生出塚村と合併し「鴻巣町」の一部となります。上谷新田は「埼玉県北足立郡鴻巣町大字鴻巣元上谷字新田」となりましたが、住民は町内会を「鴻巣人形」にちなんで「人形町」と命名し、郵便物などの実生活においては「人形町」を好んで使いました。
そして昭和40年(1965年)に、市が「人形町町内会」の地域を、登記地名「人形1~4丁目」に改編したことで「人形」の地名が正式に認められました。(市観光協会歴史文化部)
◇ひな祭りの歴史
女の子の赤ちゃんが初めて迎える上巳の節句(桃の節句)を初節句といい、3月3日がこの日にあたります。
わらや草木でつくった人形に自分の災厄を移して川や海に流す「流しびな」と、平安時代に貴族の子女の間で始まった人形遊び「ひいな遊び」が、長い間に結びつき、現在の「ひな祭り」となりました。
■節句は5つある!
人日(じんじつ)(1月7日の七草がゆ)
上巳(じょうし)(3月3日の桃の節句)
端午(たんご)(5月5日の端午の節句)
七夕(たなばた)(7月7日の七夕祭り)
重陽(ちょうよう)(9月9日の菊の節句)
鴻巣ひな人形協会会長
関口 典宏(せきぐち のりひろ)さん
鴻巣の人形作りは、農家が閑散期に副業として始めたもので、時代とともにひな人形などの専業へと変わり、明治期には中山道沿いに数多くの職人がいました。
鴻巣のひな人形の特長は、細部までのこだわりです。表面上だけでなく、見えない部分までしっかりと手間をかけて縫い合わせています。
最近は、顔つきや衣装が洋風な人形、人気キャラクターとのコラボ人形などがメディア等で紹介されていますが、お子さんのお守りということもあり、やはり伝統的なデザインを買われる方が多いですね。
ひな人形は、お子さんが触れることでその子の厄やくを吸い取ってくれるといわれていますので、ぜひご家庭のひな人形で遊ばせてあげてください。そうすることで顔の表情や着付けの細かい部分も楽しんでもらえると思います。
問合せ:産業観光館「ひなの里」
(【電話】540-3333)
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