『「祭る」という食文化』
文化財調査員 佐藤頼久
我が家の食卓は、ご飯と味噌汁、そして沢庵や菜っ葉の漬物が普通でした。穀物は、米・麦・トウモロコシそして大豆・小豆を栽培していた。ご飯は大麦と米を混ぜた麦飯が多かった。味噌汁は、自家製の大豆で味噌を作り、具材としては、キャベツ、白菜、ジャガイモ、茄子、里芋、カボチャ等の旬の野菜が入る。常時自宅の梅で作った梅干しがあり重宝していた。醤油も自家製のものを使っていた。ただ、不味くて買い醤油を使うようになり、美味しいのでご飯にかけて食べていた。冬には祖母と臼で引いた大豆で豆腐作りもした。果物としては敷地内にグミの木を植えていたので、木に登ってよく食べた。ハランキョも好きでよく食した。秋には、医者いらずと言われる栄養価の高い甘柿を取り入れ、渋柿は皮をむき吊るし柿にしたり、焼酎に浸し「あおし柿」にしていた。お菓子がなかったので干し柿は重宝していた。
昔、牛乳がなかったので、小中学生の頃山羊を飼っていて、乳搾りをして火で暖めよく飲んだ。蛋白質、脂質、カルシウム、ビタミン類が豊富で山羊のおかげで健康を頂いた。蛋白源としては鶏を飼っていて卵かけご飯にしたり卵焼きにしたりして食べた。その他ウサギ汁、キツネ汁、タヌキ汁等々、色々なものを食べさせられた。マムシの焼酎漬けがあり、乾燥したものをフリカケにして食べたこともある。昔どの家にも役牛として物の運搬や田おこし等に数頭の牛を飼育していた。野原に放牧していて事故死した和牛を部落の皆でさばき、その肉を皆に分けて食べた時は美味しかった。農薬が普及していない頃、川には、どんこ、フナ、アブラメそしてどじょうなど魚が豊富でその命も頂いた。
こういった時代背景もあり、餅や米、肉・野菜など貴重な食料をありがたくいただくことを感謝する意味で、自宅の仏壇や荒神様に一度お供えをして食していた。
「祭る」という食文化は今でも日常に残っている。炊き立ての白米「お仏飯(おぶっぱん)」をお供えしているのはわが家だけではないだろう。
店もなく、自給自足的に種々の知恵で自家製のものでお腹を満たし、それなりに幸せを感じていた遠い日の追憶を懐かしみながら、今日も仏壇に手を合わせる。
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