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≪特集≫それぞれの戦争(2)

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大分県九重町

◆佐藤ハツエさん
一九四〇年代の日本、戦火の中で青春を過ごした若い女性たちの物語があります。「女子挺身隊(ていしんたい)」として知られる彼女たちは、軍事工場で働き、戦場に向かう兵士たちの支援に尽力しました。しかし、その日々は決して容易なものではありませんでした。今回、お話をお伺いした佐藤ハツエさん(95歳)もその一人です。

佐藤さんが、女子挺身隊に参加したのが15歳のとき。昭和18(一九四三)年でした。
「きょうだいが多かったこと(9人)もあり、就職するような感覚でしたね。福岡の軍需工場に行きました。兵隊の靴をつくる工場で、ここ(南山田)からは3人行きました。仕事は朝の8時から夕方5時まで。大きな工業地帯の中にあったこともあり、よく空襲警報がありましたよ。そのたびに防空壕に避難しました」
寮は6~7人部屋で同室は鹿児島の人ばかりで「言葉がわからなかった」そう。日曜日は友だちと天神や大宰府に遊びに行った楽しい思い出もあるものの、「故郷が懐かしくてよく泣いていました。父からよく手紙が来ていたのですが、それを見るたびに泣いていました」。
いつも空腹だったといいます。
「食事は芋ごはんか麦ごはん。おかずも干し大根など、質素なものばかりで、魚や肉は食べた記憶がないです。それと大変だったのが、シラミ。着物をめくると、シラミの卵がたくさん,ということがよくありました」

終戦を知ったのは、南山田に帰った後。
「まだ、子どもだったこともあり、思ったのは、もう工場にはいかなくていい、でした」
ただ、戦争が終わっても食べ物には苦労しました。ときには、砂糖やメリケン粉と家にあるものを交換もしました。
相変わらず麦ごはんや、芋ご飯で、「年とり(大晦日)のごちそうも、せいぜい、イワシかメザシでした」。
終戦後は青年学校(勤労青少年のための学校。一九四七年廃止)で学びなおしもしました。
「戦争中、竹やりを使った訓練もあり、ゆっくり勉強するようなこともありませんでしたね。本当はもっと勉強したかった。いまの若い人たちには、勉強をしていい社会をつくってほしいですね」

佐藤さんに、戦争のころと今とを比べてどう思いますか、と聞くと返ってきた答えは、「ウラ・オモテ」。まったく違うという意味と思いますが、同じコインのウラ・オモテととらえることもできます。戦時中と現代、その違いは歴然としていますが、両者は同じコインの裏表のように互いに密接に関連しています。戦争の影が色濃く残る過去と、平和を享受する現在。この対比を通じて、私たちはどのような教訓を学び、どのように未来に活かしていくか考えなければなりません。
一九四〇年代の日本。戦争の悲惨さは日常の一部となり、多くの若者が青春を犠牲にしました。佐藤さんが経験した苦労は、戦争の悲劇を超えて現代に語り継がれるべきものです。ただ、佐藤さんは「本当の戦争の辛さというのは、経験してみた人じゃないとわからない」ともいいます。
「だから、絶対に、戦争はあってはならないのです。食べ物も今は何でもあるけど、戦争になると、わからんね…」
現代の日本は平和に包まれ、戦争を知らない世代が増えています。だが、この平和は同じコインのウラ・オモテのように過去の犠牲の上に築かれたものです。戦争中の経験を知らない現代の私たちにとって、それは教訓として語り継がれなければならないものです。

今回は、2人の方に体験談を語っていただきました。引き続き体験を語っていただける方を募集しています。貴重な体験を未来へ伝え、平和の大切さを共有するため、ご協力をお願いします。語って良いという方、身近にそういう方がいらっしゃる場合は、九重町役場情報デジタル推進課までご連絡ください。

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