今回は庄内町にある高岡のキリシタン墓(市指定重要文化財:建造物)の紹介です。
こちらのキリシタン墓は3基を数え、佐平治地区にある大きなため池付近の墓域に位置し、隠れキリシタンの墓と言われています。
隠れキリシタンとは、キリスト教徒の中で、自らを仏教徒と偽り、密かにキリスト教を信仰し続けた人々のことをいいます。
高岡のキリシタン墓は一見すると仏教の宝塔のようですが、3基それぞれにキリシタン墓とされる特徴があります。
文末写真中央の墓には、各部分に小さな傷のような十字が刻まれており、目を凝らして見なければわからない工夫がされています。
写真右の墓は、基礎の上面と塔身の底面に明確に十字の掘り込みが見られます。墓碑を傾けなければ見えない位置に、このような掘り込みがあるということに大きな意義が認められます。
写真左の墓には中央の墓と同じように傷のような十字が刻まれていることに加え、笠部の底面と塔身の上面に十字の掘り込みがあります。
このように、外見では仏教に帰依していた人物の墓にしか見えませんが、随所にちりばめられた線刻の十字と、明確な意思をもって秘匿された十字は、この墓の主がキリシタンであったことを雄弁に物語っています。
しかし、なぜキリシタンであることを隠さなければならなかったのでしょうか。
戦国時代の大名、大友宗麟は南蛮貿易により富を蓄え、またその文化を積極的に取り入れて、南蛮文化発祥の地を豊後に創出させました。自らもキリシタンとなり、領民の多くもキリスト教に帰依したと言われています。ところが、後に豊臣、徳川によりバテレン追放令や禁教令が出され、全国でキリスト教の信仰が禁止されてしまいました。
高岡のキリシタン墓の主たちは、自らの信仰を貫くため、また意思を示すための最大限の行為として、このような方法を執ったのではないかと考えられます。
なお、高岡のキリシタン墓は一般公開をしていないため見学は出来ません。
※詳細は本紙18ページをご覧ください
問合せ:社会教育課
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