■岡藩、赤座治郎右衛門と養蚕ことはじめ
文政5(1822)年、赤座治郎右衛門(あかざじろううえもん)が江戸勤めの時、信州森村(長野県千曲市(ちくまし))出身の中条八郎左衛門(ちゅうじょうはちろうざえもん)に会って「養蚕を始めれば国益になる」と説かれる。しかし赤座は、8月に13歳から勤めた江戸、国元へ変わる。
文政7(1824)年はじめ、中条は蚕種と桑苗を持って、赤座宅へ訪れる。赤座は、奉行職井上快助(いのうえかいすけ)の許を得て希望者に蚕を育てさせる。赤座の妻は、上州高崎(群馬県高崎市)の人で繭を糸にすることを心得、指導している。自宅の玄関左右には、桑の畝植えがされ栽培方法を示し、一方では山野に自生の桑を探し求めている。
初めは、一斗余りの繭がとれ糸にし、その功績が真綿2把の賞となり、赤座の妻は称えられる。この成果により蚕種の仕入れを5枚にしたので、赤座宅での糸引きは30人余りの女性や子どもから、その後56人に増えている。
文政9(1826)年4月、中条は藩より「一人扶持(いちにんふち)」(玄米一石八斗)を与えられ、蚕種3枚を返礼している。赤座宅での繭の生産は30石に、糸の生産も増え指導者を得て製織を始めている。
文政10(1827)年2月18日、中条八郎左衛門が病死し、岡藩の手厚い処置に息子粂吉(くめきち)が謝礼に訪れ、父の志を継いで繭や糸の売買の交渉と、藩のために活躍している。
文政11(1828)年10月8日に井上快助、柳井藻治郎(やないあやじろう)を養蚕御用掛とし藩機構が整い、養蚕、製糸、製織と一貫した管理体制が施されている。
文政13(1830)年6月2日、赤座治郎右衛門(百石取)は養蚕振興で藩益に尽くし、68歳で亡くなる。
墓碑には、
おもう事
尽果(つきはて)よとて
あかつきのかね
とある。
「露の身の 消行夢(きえゆくゆめ)の世の中に さむれば残る 面影もなし」ともあり、妻(老尼)が夫への追善の歌なのか、辞世の歌とともに残されている。
(広田敦)
「近世産業技術の伝播と普及」豊田寛三著より
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