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交野に残る家康の足跡

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大阪府交野市

織田(おだ)信長(のぶなが)、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)と並ぶ三英傑の1人、徳川(とくがわ)家康(いえやす)。交野市は家康の人生に度々かかわっており、今も史跡が残っています。家康ゆかりの地とともに交野市とのつながりを紹介します。

■夏の陣と交野ゆかりの人々の活躍
徳川(とくがわ)家康(いえやす)・秀忠(ひでただ)親子が率いる幕府軍は、大坂城を守る軍勢と、天王寺・岡山の戦いで激突。この戦いでは交野ゆかりの人々も活躍しています。
星田領主の市橋(いちはし)長勝(ながかつ)は、家康出陣の際に星田を守るように命じられたものの、自ら家康に訴え、この戦いに参戦しました。家康本陣に真田軍の猛攻が及んだ際、隊列を崩さず持ちこたえ、家康を守ったといいます。
また、織田政権時代の交野(私部)城主・安見(やすみ)右近(うこん)の子孫とも伝えられる安見右近元勝(やすみうこんもとかつ)(後に安見隠岐(やすみおき))は、加賀前田家に鉄砲頭として仕え、秀忠軍の先陣を務めました。豊臣軍が徳川軍の隙を突いて秀忠本陣に迫ろうかという乱戦になりましたが、右近は重傷を負いながらも退かず、部下とともに武功を挙げました。
黒田(くろだ)長政(ながまさ)が戦後に絵師に描かせた「大坂夏の陣図屏風」には秀忠軍の先鋒で前田家の部隊が鉄砲で戦う姿が描かれています。これが加賀の安見右近率いる隊なのかもしれません。豊臣軍の猛攻は家康・秀忠に迫ったものの、圧倒的な兵力差もあって徳川軍に敗れ、5月8日に大坂城は落城しました。

■元和への改元と家康の死
この戦いによって国内の対抗勢力を退けた徳川幕府は、7月に武家諸法度と公家諸法度を発布して統制を進めました。そして、同時期に「元和」への改元が行われています。これは「平和な世を始める」という意味で、家康の意向も強く反映されたとみられています。この元号に示されたとおり、応仁の乱から続いた長い戦乱の世は、大坂夏の陣によって終止符を打たれることになりました。そして、紆余(うよ)曲折を経ながらも幕末までの260年以上、平穏な時代が続くことになります。この翌年、元和2年4月に家康は死去しました。

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