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交野に残る家康の足跡

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大阪府交野市

織田(おだ)信長(のぶなが)、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)と並ぶ三英傑の1人、徳川(とくがわ)家康(いえやす)。交野市は家康の人生に度々かかわっており、今も史跡が残っています。家康ゆかりの地とともに交野市とのつながりを紹介します。

■市橋長昭(いちはしながあき)を助けた幕府のエリート
石材は無事に調達されたものの、文化元年(1804)、将軍の下で儀礼をとりしきる奏者番に就任した長昭は一層多忙になり、石碑を完成させることができずにいました。長昭を助けたのは幕府の同僚でした。
小田原城主で、星田村にも約109石を有していた大久保忠真(おおくぼただざね)は、碑の表題「神祖営趾之碑(しんそえいしのひ)」を作成しました。神祖とは江戸時代に神として崇められた家康のことです。忠真は、二宮尊徳(にのみやそんとく)(幼名金次郎(きんじろう))を登用し藩の財政改革に取り組んだことで知られます。福山城主で、文化人として長昭と交流のあった阿部正精(あべまさきよ)は、長昭が考案した碑文を丹念に清書しました。両者はともに後に老中(政務をつかさどる最高職)まで上り詰めた幕府のエリートであり、幕府の要人の助けを得て石碑の作成が進みました。

■継承される神祖営趾之碑
ようやく石碑が完成したのは文化3年(1806)のことで、長昭の発案から7年が経っていました。石碑の完成披露にあたっては星田村全体が休日とされ、平井家をはじめとした村の人々に御神酒や餅などがふるまわれました。
なお、長昭による石碑建立は幕府のエリート達にも影響を与えたようで、大久保忠真は天保7年(1836)に星田の石碑に似た「神祖大君営祉ノ碑」を小田原藩で建立しました。
その後、明治維新を経ても石碑は現地で保存されました。時代が変わっても徳川家や市橋家への恩顧を忘れなかった星田の人々の思いがうかがえます。重要な歴史資料となった神祖営趾之碑は、平成22年(2010)に交野市指定文化財とされ、建立から200年以上を経た現在も家康公との縁を伝え続けています。

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