■弥生時代の高地性集落 大野池遺跡の発掘成果
北部コミュニティセンターの場所にあった、弥生時代の高地性集落を紹介します。
北部コミュニティセンターを空から眺めると、湖上に浮かぶヨーロッパのお城の風情があります。この湖は大野池というため池で、今から約一三〇〇年前に造られたという説もあります。
北部コミュニティセンターの建つこの場所に大野池遺跡がありました。建設に際し、平成12(2000)年から翌年にかけて発掘調査が行なわれました。すると、弥生時代の集落と須恵器を焼いた登(のぼ)り窯(がま)が見つかりました。
今回紹介するのは弥生時代の集落です。この場所に弥生集落が誕生したのは、弥生時代中期(二一〇〇年前)に大きな勢力をもっていた池上曽根遺跡が、急激に力を失った直後の弥生時代後期(一九〇〇年前)です。この時期に限り、人びとは平野の集落を捨て、生活するには不便な丘陵の上に集落を築きました。このような集落は「高地性集落」と呼ばれます。本市では和泉中央丘陵の先端に築かれた観音寺山遺跡(弥生町)と、信太山丘陵に築かれた惣ヶ池遺跡(小野町・鶴山台)が高地性集落として有名です。大野池遺跡は惣ヶ池遺跡とは大野池を挟んだ至近の位置にあります。
観音寺山遺跡は集落の周りに二重の堀を巡らせており、まるで山城のようです。惣ヶ池遺跡も四周(ししゅう)が急峻(きゅうしゅん)な崖で、容易に近付けないような場所に築かれていることから、弥生時代後期には社会に大きな動揺が生じていたとも言われています。大野池遺跡には堀はありませんが、その立地を見る限り、高地性集落と呼んで一向に差し支えありません。
3万平方メートル以上の規模をもつ観音寺山遺跡や惣ヶ池遺跡に比べると、大野池遺跡は十分の一ほどと見劣りしますが、他の集落には見られない特殊性を備えていました。
集落を造るために、丘陵の頂を削り平らにし、その削った土を使って二段の雛壇状の平場を造るという大きな造成がなされています。上段の平場の中心には四本の太い柱を使った神殿のような建物が一棟だけ建てられていました。一段下がった下段の平場には人びとが住まう竪穴建物が並びます。上段と下段の間には溝を掘り、鳥居のような門も作られていました。
竪穴建物の一つは、六角形の外観を持ち、周りをグルリと柵で囲っていました。このような建物は他では見つかっていません。何か特殊な目的を持った建物だったと考えられています。
大野池遺跡の集落は小さいですが、計画的に造られた特殊な意味を持つ集落だったと考えられます。高地性集落の性格や、信太山丘陵の歴史的展開を考えるうえで重要な遺跡です。大野池遺跡の調査成果は、発掘調査以来、四半世紀も未発表でしたが、来年の三月には、一昨年に近畿地方で最古級の青銅鏡が発掘された惣ヶ池遺跡の研究成果などと合わせ、『和泉市史紀要第34集』として発表する予定です。
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