■新・国登録有形文化財 河野(かわの)家住宅 庄屋屋敷のかたちと機能
文化庁の文化審議会は、令和5年11月24日、290件の建造物を登録するよう、文部科学大臣に答申しました。これにより内田町の河野家住宅が新たに登録有形文化財(建造物)に登録される予定です。
河野家は、江戸時代の後半に内田町の庄屋を勤めた旧家です。屋敷の中央に建つ主屋(しゅおく)は今も堂どうとした風格を見せます。中央に急こう配の大屋根をかぶり、その周囲に一段低い本瓦葺の屋根を回しています。このような二段構えの屋根を持つ民家建築は大和棟(やまとむね)とよばれます。現在、中央の大屋根は金属の板で葺(ふ)かれていますが、往時(おうじ)はカヤ葺(ぶき)であったと思われます。向かって右側の瓦屋根の上に煙出しが乗っていて、その下にはかつて竈(かまど)があったことが想像されます。
主屋の向かって右手にある土蔵は、飢饉(ききん)に備えて米穀(べいこく)を貯蓄する村の社倉(しゃそう)の役割を果たしていました。主屋と蔵に囲まれた広場には、年貢米となる米俵や地域特産の蜜柑(みかん)が山と積まれたことでしょう。
次に主屋の内部を覗いてみましょう。今から160年前の文久3(1863)年に描かれた河野家の屋敷図を見ると、広場に面して式台玄関(しきだいげんかん)6畳と勘定場(かんじょうば)4畳、8畳の間とが並んでいます。これら広場に面した3つの部屋は庄屋としての職務を行う役所の機能を果たしていた空間です。こうした公的な空間の奥に、生活の場があり、「オモテ」と「オク」という二つの空間で構成されているのが特徴です。160年前そのままとはいきませんが、現在も基本的な間取りは変わらず残されています。
以上のように、河野家住宅は建造物の外観だけでなく内部にも江戸時代の姿を残しているという点で、空間的な歴史資料といえるでしょう。
さて、河野家住宅のように、江戸時代は村政(そんせい)をになう庄屋の個人宅が村の役所を兼ねることが一般的でした。そこではたくさんの公文書が作成され、また保管もされたため、それが庄屋家の古文書として残ることになったのです。
河野家にも約1、400点の古文書が現代に伝えられてきました。その中には村政に関わるものや、往時の村の姿を知る事のできるものが多くあります。
例えば延宝(えんぽう)7(1679)年の「内田村検地帳」は村内の田畑屋敷一枚ずつの面積、生産力、持主などを記録したもので、年貢を徴収するための基本台帳になるものです。時代が下って明治2(1869)年「内田村差出帳」は、村内の家数、人数、牛の数、寺社、田・畑・山林・屋敷の面積、生産高などをとりまとめたものです。河野家は明治初期には戸長を勤めていたため、この史料が河野家に残ったものと思われます。
これらの古文書は内田村の「公文書」であり、村の歴史を知るうえでは欠かせないものです。旧庄屋家の古文書や建造物は、個人のものでありながら一方で地域の歴史を知るために欠かせない貴重な文化財でもあるのです。
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