■災害はたたり?宝永(ほうえい)地震と池上村の庄屋
21世紀も四半世紀を過ぎようとしている現在。人類の科学文明は著しく進歩し、自然現象の理解も深まりました。しかし、300年前に南海トラフで起きた宝栄地震を、和泉の人は、どのように理解したのでしょうか。
宝永4(1707)年10月4日、東海道沖から南海道(なんかいどう)沖を震源域とした巨大地震が発生しました。この半月余り前に池上村の庄屋に就任したばかりの岸田覚兵衛は、「本郷萬覚帳(ほんごうよろずおぼえちょう)」に、「十月四日八ツ時(やつどき)午後2時頃大地震、半時(はんとき)ばかり」と記しています。
泉州の支配を担当する堺奉行所(さかいぶぎょうしょ)(幕府の出先機関)は11日に、地震被害の把握を大名らに指示しました。池上村の領主である小泉藩(こいずみはん)片桐家は、代官を通じて、領知の村むらに対して、建物の損壊、人や牛馬の被害実態について報告を求めました。
池上村の庄屋覚兵衛ら村役人らがまとめたところによれば、建物では全壊5棟(母屋2、蔵1、門1、長屋1)、半壊19軒、破損37軒の被害が出たようです。寺院は被害が大きく、養福寺と道場(光楽寺)はともに本堂と方丈(ほうじょう)が半壊しました。金蓮寺は本堂が半壊し、方丈が大破、薬師寺も大破しました。幸いにして人間や牛馬の被害は出なかったようです。海に近い大津村(泉大津市)はより被害が甚大だったようで、覚兵衛は「萬覚帳」に370軒余も潰れたと書き留めています。
覚兵衛が庄屋に就任してからの半年は、列島の各所で甚大な災害が起きた時期でした。覚兵衛は、同じ文書(もんじょ)のなかで、古代中国に由来する五行(ごぎょう)説になぞらえて、「木火土金水(もっかどこんすい)の五行のたたり覚」としてまとめています。
まず「木」は、宝永地震によって、寺社や家が多く破損したため、材木の値段が高騰(こうとう)し、万民(ばんみん)が難儀(なんぎ)したことを挙げます。「火」は、翌5年3月8~9日にかけて京都を襲(おそ)った大火事を見立てています。三条油小路(あぶらこうじ)から出た火は、内裏(だいり)を全焼し、公家町を焼き、上京(かみぎょう)を中心に四百カ町を越える町場も焼けました。「土」は、宝永4年11月23~27日にかけて、相模(さがみ)・駿河(するが)・武蔵(むさし)の国一帯で砂が降り、江戸では、昼間でも火を灯(とも)さなければ見えなくなったことを挙げます。これは、宝永地震の影響で起きたとされる、富士山大噴火による火山灰の影響です。「金」は、この火山灰が降り積もった三カ国の砂を取り除くための経費として、幕府が全国に御用金(ごようきん)を課したことを挙げています。最後の「水」は、宝永地震によって押寄せた津波による被害です。大坂市中に架(か)かる橋が36も落ち、地震と波とで一万八千人を越える人命が失われたと記しています。さらに津波は、紀州日高郡熊野あたりや伊勢の海べりの集落八百余に被害をもたらし、土佐国の城下では五尺ほど地盤が下がったとも記しています。
庄屋覚兵衛は、当時の考え方を用いて、頻発する災害に向き合っていました。
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