■『和泉市の歴史』第5巻第1部 和泉平野の生活のはじまり
「府中」地域が和泉地域の中心的な役割を担う基礎となったのは、弥生・古墳時代にさかのぼります。
「府中」地域で人びとが生活を営みはじめたのは、いつからなのか。そしてどのように展開していくのでしょうか。
府中・豊中遺跡群や隣接する板原遺跡などで縄文時代中期末の土器が散見されます。遺構(いこう)としての生活の痕跡はほとんど見つかっていませんが、土器の出土から考えると、この頃には「府中」地域に縄文人が定住したといえます。明確な人びとの生活の痕跡がみられるのは、弥生時代になってからです。
弥生時代前期後半には環濠(かんごう)を巡らす集落として池上曽根遺跡が成立します。中期になると爆発的に集落は発展します。特に中期後半に最盛期を迎え、集落面積が11万平方メートルにも達する大集落となります。
集落の中心には大型掘立柱建物と大型刳(く)り抜き井戸が設けられ、地域を総括する祭祀(さいし)がここで執り行われていたことが読み取れます。池上曽根遺跡が最盛期を迎えるころに府中遺跡とその周辺でも弥生文化が芽生えることになります。
槙尾川・松尾川下流域には、肥沃(ひよく)な沖積(ちゅうせき)平野が広がり、水も豊富にあるため、水田経営に適していると思われがちですが、両河川は相当な暴れ川のため、弥生時代には下流域に安定した集落を築くことは困難でした。そのような状況下でも、集落面積が1万平方メートル以下の等質的集落が微高地などに点在しており、池上曽根遺跡を中心とした弥生社会が形成されていたようです。
弥生時代中期最末期あるいは後期初頭になると、池上曽根遺跡は、その地位が喪失してしまいます。地域の象徴であった大型建物と井戸の廃絶がそれを物語っています。このことは「府中」地域に大きな変化をもたらしました。池上曽根遺跡の権力の失墜に伴い、槙尾川・松尾川下流域の集落も活動を停止します。それに代わるように、和泉中央丘陵に高地性集落、観音寺山遺跡が出現します。これは平野部の集落がいっせいに丘陵上に集結したことによるものと考えられています。観音寺山遺跡は、集落開始当初は、二重環濠が掘られていたものの、なぜか50年ほどでその機能は果たされなくなりました。観音寺山遺跡では、当時の貴重財である鉄器も多く出土しており、交流拠点として開かれた集落であったとみられます。弥生時代の終わりとともに、観音寺山遺跡の集落も終焉を迎えます。そして、人びとは平野部へと戻っていくのです。
古墳時代になると、JR和泉府中駅周辺の府中・豊中遺跡群に集落が広がりはじめ、中期になると、まつりの場も整えられ、この集落は、「府中」地域のみならず和泉地域の中心として発展していくのです。
『和泉市の歴史』第5巻は本体価格2,857円。文化遺産活用課、いずみの国歴史館、信太の森ふるさと館、池上曽根弥生情報館などで販売しています。
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