■『和泉市の歴史』第5巻第3部 中世の地域をめぐる文書(もんじょ)と情報
古代の地方行政機関である国衙(こくが)を支えた在庁官人(ざいちょうかんじん)の末裔(まつえい)は、次の中世という時代に、どのような役割を果たしたのでしょうか。
日本古代の地方行政単位を国(くに)と言います。現在の大阪府には、摂津国(せっつのくに)・河内国(かわちのくに)・和泉国(いずみのくに)が設置されていました。
和泉市府中町は、和泉国の地方行政機関である国衙があった場所(国府(こくふ))と推定されています。
国衙では、地元の有力豪族が在庁官人(官僚)として活動しました。中央政府である朝廷からの命令を郡衙(ぐんが)(郡の役所)に伝達したり、その反対に、郡からの報告を取りまとめ、朝廷へ伝達したりする機能を果たしました。戸籍の作成や貢納物の管理なども、国衙の役割でした。
在庁官人の末裔の一部は、中世(院政期・鎌倉・南北朝・室町・戦国の各時代)になっても、武士や神官として活躍しました。
写真は現在の泉南郡岬町(せんなんぐんみさきちょう)を本拠地とした淡輪(たんのわ)氏という武士の一族に関係する中世の古文書(こもんじょ)です。
この古文書は室町時代の応永(おうえい)三(一三九六)年に記されたものです。
これによると、淡輪氏は、鎌倉時代に六波羅探題(ろくはらたんだい)から頂いた下知状(げちじょう)(命令書)や荘園領主から頂いた補任状(ぶにんじょう)(任命状)など、下司(げし)(荘園現地の役職)をつとめる上で大切な文書を持っており、紀州(和歌山県)の永尾宗秀(ながおむねひで)という人に預けていました。
ところが、応安(おうあん)年間(一三六八~七五)の戦乱により、預けた文書は焼失してしまったのです。
写真の古文書では、年月日の次の行から、11人の武士が署名と花押(かおう)を据えて、淡輪氏の文書が焼失した事実を認めています。国内の武士は、互いに所持する文書やその権益を確認し合っていたのです。
11人の中には、取石(とりいし)・助松(すけまつ)・佐野(さの)といった本拠地の地名を名字とする武士、東国の出身である田代(たしろ)を名字とする武士、そして田所(たどころ)や惣官(そうかん)といった在庁官人の役職を名字とする武士を見出すことができます。
応永三三(一四二六)年には、松尾寺(まつおじ)と穴師堂(あなしどう)(泉穴師神社(いずみあなしじんしゃ)の神宮寺(じんぐうじ))とが国惣講師職(くにそうこうししき)という国内の仏事や供養を統括する権利をめぐって争いを起こしました。
この時、田所氏と惣官氏は、国の守護に起請文(きしょうもん)(誓いの文書)を捧げて、穴師堂が惣講師職を所持する事実を報告しました。田所氏と惣官氏は「在庁(ざいちょう)」という古代以来の官人の歴史を背負い、国内の情報を掌握していたのでしょう。
このような和泉国の府中における在庁官人の活動は、全国的にも比較的はっきり分かるものと言えそうです。
詳しくは『和泉市の歴史』第5巻をご覧ください。
本書は本体価格2、857円。文化遺産活用課、いずみの国歴史館、信太の森ふるさと館、池上曽根弥生情報館などで販売しています。
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