■第4回 新世界地域
令和7年 2025年、浪速区は区制100周年を迎えます。その節目に先立ち、浪速区の歴史を区内11地域の皆さんと座談会で振り返る連載企画です。第4回では、新世界の皆さんに当時の思い出やエピソードなどを伺いました。
参加者:
後列左から 上杉かずのりさん、近藤正孝さん、松本文成さん、ざつの裕史さん
前列左から 西上雅章さん、幡多区長、松本芳夫さん
◆時代の先端をいっていた明治・大正
区長 新世界地域は昔、西成郡今宮村の一部で、畑が広がっていました。そこからどのように開発されたのでしょうか。
上杉さん 昔、なんばあたりにまちがあり、市域が広がっていきました。そして明治22年 1889年、この地域に初めて偕楽園商業倶楽部という施設ができました。
また今宮臥龍館という施設には日本初のローラーコースター ジェットコースターのようなものがありました。他にも、5階建ての建物があり、大人気だったようです。でも、オープンした後、閑散としていたらしいです。あまりにもブッ飛んだ施設だったので、一般のかたがついていけなかったんだと思います。
区長 そして、明治36 1903年に第5回内国勧業博覧会が開催されました。
上杉さん 第5回内国勧業博覧会は、新世界と天王寺公園を合わせた辺りが第1会場で、堺の大浜が第2会場でした。
博覧会をこの地に引っ張ってきたのは、大阪商工会議所会頭の土居通夫さんでした。大阪の中にも何か所か候補地があったようですが、将来の大阪発展のポテンシャルが一番高い場所ということで新世界と天王寺の場所に決められたようです。本を見ると、この博覧会に450万人、多いところだと500万人程の来場者があったと書かれています。
区長 博覧会は大成功だったんですね。
上杉さん 博覧会が終了し、その跡地は一時、日露戦争の捕虜収容所になりました。その後、明治45 1912年に大阪土地建物という会社が、半分を新世界、半分を天王寺公園にしました。初代社長はさっき言った土居通夫さんです。土居さんは多分、恒久的な博覧会のようなものを新世界につくりたかったんだと思います。
区長 そして新世界に通天閣とルナパークが誕生しました。
上杉さん 新世界のルナパークは明治45 1912年の7月3日にオープンしましたが、7月の終わり頃に明治天皇が危篤になられました。当時としては大きな話で、新世界はコマーシャルをあまり打つことができませんでした。そして、大正12 1923年にルナパークは閉園してしまいます。
区長 ルナパークがあった大正時代、新世界はどのようなまちだったのでしょうか。
西上さん 私の父は大正時代に新世界で丁稚奉公をしていて、戦後独立して、ジャンジャンまちで商売を始めました。自分が若かった頃、子ども5銭、大人10銭で遊べる新世界というのがキャッチフレーズで、10銭あれば活動写真 今の映画を観て、じょうま 注 じょうまむしの略。まむしはうなぎのこと 一番良いうな丼を食べて、コーヒーが飲めたんや、という話をしていました。
東京の浅草、神戸の新開地、そして大阪のこの新世界が三大演芸映画のまちでした。大正時代の新世界には、大衆娯楽の映画館や寄席小屋、今でいう大衆演劇の芝居小屋が20軒ぐらいあったそうです。
また、大正時代の新世界ははなまちでもあり、旦那衆のまちだったとも言っていました。小料理屋や料亭が並んでいて、芸者も千人ぐらいいたそうです。
上杉さん ルナパークを囲むように劇場や遊技場が配置されました。今の恵美須東1丁目あたりはショッピングモールでした。昔の新世界の写真の中に、家族連れや大人のかたが歩いている写真が残っています。そういう風景が新世界に来ていた人たちを象徴している感じがします。
松本 芳夫さん お金のある人はとびたのほうで遊んだ後、新世界に流れてきたそうですよ。
区長 いろんな遊びかたができるまちだったんですね。
◆戦後の復興と通天閣の再建
区長 その後、戦争が始まって、昭和18年 1943年に初代通天閣が隣の映画館の火事で延焼して解体され、昭和20年 1945年3月の大阪大空襲で、新世界では国際劇場の建物以外、すべて焼けてしまったそうですね。
戦後、新世界はどうやって復興していったのでしょうか。
松本 芳夫さん 初めは掘っ立て小屋のようなものだったのではないかな。うちの親父も屋台からです。新世界はよそから流れ込んでくる人が多かったと思います。
区長 それから、2代目の通天閣も昭和31年 1956年に再建されました。
雑野さん 私の祖父が新世界町会連合会の会長をしていて、その時に代表発起人となって今の通天閣を再建しました。その後、2代目通天閣の初代社長となり、その時に作った巻物に祖父が最初に書いた言葉は通天閣の再建なくして新世界の復興なし。通天閣を再建しないとあかんという熱い思いがあったんでしょうね。
区長 劇場・映画館もずいぶんできたそうですね。
松本 芳夫さん 昭和30年 1955年代の中頃は映画館が全盛で、大映、松竹、東宝、日活、東映の5社がありました。
西上さん づぼらやの隣に公楽座がありました。道頓堀の大阪松竹座と同じ造りで桟敷席があって。良い映画館でした。子どもの頃に母親に連れられて、三波春夫や都はるみの公演を観に行った記憶があります。
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