●約100年前(区画整理前)(詳細は本紙をご覧ください。)
1928(昭和3)年頃
(1)築港大桟橋(ちっこうだいさんばし)
(2)築港大潮湯(ちっこうおおしおゆ)
(3)廣澤亭(ひろさわてい) 戦前に港区にあった浪曲の寄席
(4)築港高野山釈迦院(ちっこうこうやさんしゃかいん)
(5)大阪市立運動場
(6)市岡パラダイス
写真提供:
大阪市立図書館
(1)築港大桟橋(ちっこうだいさんばし)
(5)大阪市立運動場
大阪城天守閣蔵
(2)築港大潮湯(ちっこうおおしおゆ)
(6)市岡パラダイス、開通当時の市電
築港高野山釈迦院(ちっこうこうやさんしゃかいん)
(3)廣澤亭(ひろさわてい)
(4)築港高野山釈迦院(ちっこうこうやさんしゃかいん)
●まちの成り立ち
現在の港区は、かつては淀川の河口に発達した低湿な三角州でした。江戸時代中頃から安治川を開削(かいさく)し、市岡新田をはじめとする大規模な新田開発が進められました。新田には開発した町人の名前がつけられ、現在もいくつかの新田(しんでん)(※石田、市岡、田中、福崎、八幡屋などがあります。)の名が地名として残っています。
1839(天保10)年頃の港区域の様子 〔出典:「大坂湊口新田細見図(おおさかみなとぐちしんでんほそみず)」(大阪城天守閣蔵)〕
●大阪港とともに発展した港区
1903(明治36)年の築港大桟橋(1)完成・市電開通を機に、大正・昭和時代にかけて大阪港は大きく発展しました。それに伴い、新田は宅地化され、市岡パラダイス(6)など大規模な集客施設が立地しました。一方で、市街地の道路の多くが狭い私道でした。
1942年市岡付近で畝(うね)状に拡がる連棟住宅
●相次ぐ水害とのたたかい
区内では、大阪港の発展とともに、工場やビルで使う大量な地下水のくみ上げによる地盤沈下が深刻化し、三方を海と川に囲まれた港区は、大型台風のたびに大きな高潮被害を被っていました。
1934(昭和9)年室戸台風によって壊滅した築港と岸壁に打ち上げられた船舶
1950(昭和25)年ジェーン台風による高潮被害(千舟橋付近)
●太平洋戦争による壊滅的被害
日本屈指の貿易港を擁した港区は、終戦まで計6回の空襲にあい、区域の88.6%が焼け野原となり、市内で最も大きな被害を受けました。
●現在の港区
2024(令和6)年(詳細は本紙をご覧ください。)
(1)天保山ハーバービレッジ
(2)客船ターミナル
(3)天保山
(4)ダイヤモンドポイント
(5)Asueアリーナ大阪
(6)Asue大阪プール
(7)安治川水門
(8)大阪ベイタワー
(9)尻無川水門
写真提供:
西大阪治水事務所(にしおおさかちすいじむしょ)
(7) 安治川水門
(9)尻無川水門
大阪ベイタワーマネジメントオフィス
(8)大阪ベイタワー
●戦災復興に向けた取り組み
「大阪市の復興は港から」をスローガンに、大阪港の修築事業と高潮対策事業、土地区画整理事業(次ページ参照)を併せて実施し、まちの復興を進めました。
1954(昭和29)年工事中の安治川内港
●大阪港修築事業
安治川や尻無川などを浚渫拡幅(しゅんせつかくふ)して内港化し、それによって発生する大量の土砂を使って臨港地帯に盛土を実施し、地盤沈下や高潮被害からまちを守りました。
大阪港の内港化による区の形の変化
●高潮対策事業
盛土による地盤の嵩上げに加え、防潮堤や防潮扉、大阪港から川をさかのぼる高潮をせき止める水門(安治川水門(7)、尻無川水門(9))等の整備を行いました。
大阪市内総合高潮対策事業計画図〔出典:「大阪港史第1巻」(大阪市港湾局)〕一部編集(加工)※最新の事業計画図ではありません
●未来へ発展しつづける港区
戦災や台風による高潮被害から立ち上がり、世界でも類を見ない大規模な土地区画整理事業を成し遂げ、港区は大きく発展を遂げました。現在は、「未来と世界にひらくまち・港区」をスローガンに、エリア毎の特色を活かしたまちづくりをすすめています。
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