歴史民俗資料館特別展
■池田のたからもの 第4回
歴史民俗資料館では、12月3日(日)まで、「池田のたからもの」をテーマにさまざまな市指定文化財(一部は府指定)を展示する特別展を開催しています。最終回となる今回は、少しマイナーな、心学と立教舎についてお話しします。
◇心学は実践的な道徳規範
江戸時代、武士の間では金もうけは卑しいことだとする賎商思想があったといわれています。寛政の改革を主導した老中・松平定信の言葉とされる「商は詐なり」(商売とは嘘偽りである)はそのことを端的に表しています。
自らは何ら生産することなく、はたから見れば右から左へ商品を動かして利ざやを得るように見える商売人に対しては、少なからず偏見があったということでしょう。そんな風潮に疑問を持ったのが、実践的な道徳を教えとした「石門心学」の祖、石田梅岩(いしだばいがん)でした。
京都の商家に長年勤め、商売の世界で生きていた梅岩は、「商人が利益を得るのは品物を流通させるという社会貢献の結果であり、それは武士が俸禄(ぼうろく)を得るのとなんら変わりない」とし、商人も社会に無くてはならないものだと主張しました。そして、誰からも後ろ指をさされないためには、天命に従い正直に、道徳を守って商売をしなければならないと説き、多くの門人を輩出しました。
そんな梅岩の教えを本としてまとめたのが、元文4年(1739)に出された『都鄙問答(とひもんどう)』です。ここには、梅岩の教えが問答形式で書かれていて、道話(身近な例を挙げて道徳を説いた話)を用いて分かりやすく説明されています。
現代的な感覚とは少しそぐわない部分もありますが、改めて気づかされる部分も多くあります。現代語訳版も出ているようですので、ご興味のある方はぜひ、ご一読ください。
◇黒松光仲(くろまつみつなか)と立教舎
石門心学を学ぶための講舎「立教舎」の中心となったのが黒松光仲(理右衛門)です。光仲は寛延2年(1749)に西本町(現栄本町)の薬屋、竹野屋に生まれました。心学者・布施松翁(ふせしょうおう)の教えに感銘を受けた光仲は、当時心学の中心だった京都の明倫舎に出向き、手島堵庵(てじまとあん)・和庵(わあん)父子の門を叩きました。
当初は光仲の自宅などで会輔席(かいほせき)(勉強会)を開いていましたが、後に託明寺(栄本町)の東隣に常設の会輔場が設けられ、堵庵の門人、上河淇水(うえかわきすい)書の「立教舎」の文字が刻まれた扁額(へんがく)が掲げられました。立教舎には、淇水や鎌田柳泓(かまたりゅうおう)など、当時の心学の第一人者らが招かれていたことが「先生請待録(せんせいしょうたいろく)」(当館蔵)という史料から分かります。またここには、謝礼や送迎にかかった費用などが詳細に書かれているほか、その費用を誰が負担したかも書かれています。ほかにも、立教舎関係資料は一括して市指定文化財になっていて、誰によってどのように立教舎が運営されていたのかを具体的に知ることができる、貴重な史料となっています。
立教舎はその後、休止期間を挟んで、嘉永4年(1851)までは活動を続けたことが分かっています。このような心学講舎があったということは、当時の池田の文化レベルが高かったということに他なりません。文化には形はありませんが、これもまた、間違いなく池田の「たからもの」なのです。
全4回にわたって連載してきた「池田のたからもの」ですが、限られた紙面では紹介できなかったものや、その魅力を十分に伝えられなかったものがたくさんあります。それらについては、ぜひ現在開催中の特別展をご観覧いただき、皆さまご自身の目で確かめていただきたいと思います。
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