■歴史民俗資料館特別企画展
開校150周年!池田の小学校(第3回)
現在、歴史民俗資料館では、市内小学校の歴史や教育について紹介する特別企画展を開催しています。今回は、戦時下の小学校について紹介します。
◇奉安殿の建設
奉安殿(庫)は、学校に下賜された、天皇・皇后の御真影と教育勅語の謄本を安置するため、明治中ごろから戦中にかけて建てられた施設です。校長が厳重な管理を行い、児童や教職員は、奉安殿の前を通る際には、最敬礼が義務付けられていました。
秦野尋常高等小学校(現秦野小学校)の奉安殿は、昭和9(1934)年に建設されました。学校日誌では、太平洋戦争が開戦した翌年、昭和17(1942)年からほぼ毎日「御真影奉安殿無事」といった記載を確認できます。
また、昭和14(1939)年に開校した東雲(しののめ)尋常小学校(現在の呉服小学校)では、開校当初、校舎内に奉安庫がありました。翌年、神武天皇即位紀元2600年を記念して、奉安殿を建設するために、父兄や地域へ寄付の呼びかけが行われ、昭和16(1941)年、校庭に建設されました。
◇小学校から国民学校へ
昭和16年3月に「国民学校令」が公布され、翌月の4月1日から、全国の小学校は国民学校へと名前を変えました。国民学校では、教育の全般にわたって皇国の道を修練させることをめざし、現在の小学校に相当する初等科の教科は、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(体操・武道)、芸能科(音楽・習字・図画・工作・裁縫〈女子のみ〉)に再編成されました。教科書も全て改訂され、同20年の終戦まで国家主義的な内容の教育が施されていきました。
上段の写真(※本紙参照)は、呉服国民学校の体錬科の授業の様子です。運動着やモンペを着て鉢巻きを付けた女子児童が、向かい合って薙刀(なぎなた)を構えています。薙刀の授業は、精神的な修練が目的でした。
◇イモ畑の校庭・黒塗りの校舎
戦局が著しく悪化した昭和20(1945)年5月に公布された「戦時教育令」では、決戦体制に即応するように、食糧増産、軍事生産、防空防衛に挺(てい)身することが命じられました。
下段の写真(※本紙参照)は、秦野国民学校の校庭です。校庭の南側一角(現在あおぞら幼稚園がある辺り)がイモ畑になりました。食料事情の悪化から、多くの学校の校庭が畑に姿を変え、児童や教職員は、学校生活の中で大切な学習として、畑にイモや野菜を植えました。
また、大きくて白い建物は、空襲の際に敵機の目標になりやすいことから、全国的に校舎の壁が黒く塗られました。秦野国民学校でも、低学年の児童が墨をすり、高学年の児童が集めて、屋上から流し、校舎を黒くした、という話が残っています。
次回は、戦後教育の再スタートから現在の小学校について紹介します。本紙21ページのミュージアムコーナーに展示案内と期間中のイベントを掲載しています。併せてご覧ください。
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