■北摂源氏物語
◇摂津源氏と河内源氏
6年のNHK大河ドラマは、『源氏物語』の作者・紫式部が主人公です。『源氏物語』の主人公・光源氏は桐壺帝(きりつぼのみかど)の皇子として生を受け、人臣となって最高位の太政大臣に昇ります。源氏とは、そもそも姓を持たない王家がその身分を離れて臣下となる臣籍降下(しんせきこうか)する際に、源氏の姓を天皇から賜った一族です(賜姓(しせい)源氏)。創作の光源氏も、現実の武家源氏に連なっていく経基王(清和天皇孫)も、賜姓源氏なのです。
清和源氏の子孫に、征夷大将軍となる源頼朝や足利尊氏、戦国時代の武田信玄(甲斐源氏)や明智光秀(美濃源氏の土岐氏一族)がいます。徳川家康は、真偽はともかく、清和源氏の新田氏の子孫を自称しました。
頼朝の先祖をたどると、河内国に拠点を置いた源頼信(河内源氏)にさかのぼり、さらには摂津国多田(川西市多田)の源満仲・頼光父子に行き着きます。多田神社は将軍家の尊崇を受け、足利将軍の遺骨が分骨され、徳川家綱が社殿を復興しています。ちなみにJR川西池田駅の騎馬像(本紙写真)こそが満仲であり、川西市の施設「みつなかホール」は満仲に由来します。
◇摂関家と摂津源氏
清和源氏の初代・経基は「いまだ兵の道に練れず」(『将門記』)と武人としては未熟でしたが、運も手伝って平将門・藤原純友の反乱(承平・天慶の乱)の功労者として朝廷内で処遇されます。摂津源氏は息子の満仲と孫の頼光の代に、藤原氏と結びつくことで軍事貴族として確立していきました。
安和2(969)年に藤原北家が政敵の左大臣源高明を失脚させた安和の変では、満仲が高明の謀反を密告し、摂関政治の確立に寄与しました。さらに寛和2(986)年に花山天皇が出家し、一条天皇が即位して外祖父の藤原兼家(道長父)が摂政となりますが、藤原道兼(道長兄)にだまされた花山を元慶寺まで連行したのは満仲一族でした。満仲は多田を拠点に据え、多田院を建立して、摂津源氏の祖と称されました。
そして頼光は、権勢を伸ばしていく道長側近として、受領(ずりょう)(国司)を歴任して蓄財し、内蔵頭(くらのかみ)を兼任し昇殿を許されます。寛仁2(1018)年に再建された道長の土御門邸には、頼光から豪華な調度品の数々が贈られ、人々を驚かせました。ちなみに満仲の三男が頼信で、次男の頼親の子孫には「豊嶋」を号する者が散見します。頼親の系統は大和源氏と称されるも多田に近い豊島郡(池田市全域と豊中市・箕面市の大部分、吹田市の一部)にも所領を有したと考えられます。
◇鬼滅の頼光
頼光は摂関政治の安定の下、武士としての事績はほとんどありません。にもかかわらず、頼光は妖怪・鬼神などの邪悪を撃退する超人的な人物として描かれるようになります。小林一三が収集し、現在は逸翁美術館が所蔵する国の重要文化財『大江山絵詞』(本紙写真)は、頼光と腹心の四天王が酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治する物語絵巻です。
酒呑童子とは、大江山にこもり、都の子女を誘拐して血をすすり人肉をむさぼる鬼とされます。大江(大枝)山は山陰道の山城・丹波の国境(現・京都市西京区と亀岡市の間)に位置し、感染症が京都に侵入する入口であり、頼光には王都の清浄を保ち王権を守護する、武家政権の理想が投影されています。美術史学の成果によれば、『大江山絵詞』の成立は室町初期とされます。南北朝内乱を通じて政権を確保した足利将軍家によって、京を守護した頼光の実像は偶像化・神格化されていったと考えられています。ちなみに多田神社には、頼光が酒呑童子の首を切った「鬼切丸」が源家伝家の宝刀として伝えられています。
(市史編纂委員会委員・松永和浩)
問合せ:社会教育課
【電話】754・6674
<この記事についてアンケートにご協力ください。>