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市史編纂(さん)だより わがまち歴史散歩 Vol.165

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大阪府池田市

古墳時代:古墳によって体現された社会秩序

■古墳の出現
3世紀半ば、大和盆地で巨大な前方後円墳が出現します。以後、約400年間にわたって、16万ともいわれる古墳が築造されました。これは、日本列島の歴史にあって特筆すべき現象で、当時の社会像を描き出す極めて有用な手がかりになっています。

■古墳時代の猪名川流域
では、古墳からどのような社会像を描き出すことができるのかを、池田市域を含む猪名川流域を取り上げて紹介してみたいと思います。
左図(本紙参照)に示したように、古墳時代前期(4世紀)には前方後円墳を築造することができる力を持った勢力が、猪名川流域という限られた範囲に、少なくとも5つ併存していたことが分かります。これらの勢力のうち、長尾山丘陵の勢力が他の勢力に先駆けて力を持つようになり、それぞれ2世代程度、継続して古墳が築造されています。ちなみに、最大の豊中市大石塚古墳の規模が約90m、本市池田茶臼山古墳(五月丘1丁目)が59.5mで、当時としては中規模の古墳に当たります。
ところが、中期(5世紀)に入り、猪名川流域では大きな変化が起こります。前期に見られた長尾山丘陵・待兼山丘陵・五月山南麓の勢力では中期までに古墳の築造が停止または大きく後退し、猪名川を境にして東岸地域の豊中台地の勢力、すなわち豊中市桜塚古墳群東群と、西岸地域の伊丹台地の勢力の伊丹・尼崎市猪名野古墳群の2つの勢力に集約されます。
後期(6世紀)になると、東岸地域では古墳の築造が停止し、西岸地域でも後期前半(6世紀前半)に尼崎市園田大塚山古墳を最後に古墳の築造が停止します。一方で、ほぼ同じころ、中期に古墳の築造が停止していた長尾山丘陵で新たに川西市勝福寺古墳が築造されます。このように、後期前半の猪名川流域では、既存勢力と新興勢力の併存が注目されますが、共に後続古墳の築造が停止します。
その後、中期以降古墳の築造が停止していた五月山南麓で猪名川流域最後の前方後円墳である本市二子塚古墳(井口堂1丁目)が新たに築造され、後期後半または終末期(6世紀末~7世紀初頭)に、共に巨石横穴式石室を持つ本市鉢塚古墳(鉢塚2丁目)と宝塚市中山寺古墳(中山白鳥塚古墳)が出現します。
以上のような古墳の推移から、猪名川流域では最終的には東西両岸地域がそれぞれ一つの有力勢力のもとにまとまっていく様子を見て取ることができます。とはいえ、その道のりは特定の有力な勢力が継続して成長を遂げていくといった平坦なものではなかったようです。

■政権交替に連動した動静
ところで、古墳時代にあって時期別に最大規模を持つ前方後円墳を並べてみると、天理市大和・柳本古墳群→奈良市佐紀古墳群→堺市百舌鳥古墳群、藤井寺市・羽曳野市古市古墳群→高槻市今城塚古墳→橿原市五条野丸山古墳という順序で移動しています。この現象をヤマト政権内で主導権の交替があったことを示すものとする考えがあります。それぞれの移動時期を見ると、猪名川流域で見た古墳の動静と合致することが注目されます。あくまでも一つの仮説ですが、政権内の主導権の交替が猪名川流域を含む各地域の勢力の推移と連動していたことを導き出すことができそうです。
私たちが池田市内で目にする古墳は、市域や猪名川流域で完結するものではなく、この地域が古墳によって体現された当時の社会秩序の中に組み込まれていたことを物語っているといってもよいでしょう。
(市史編纂委員会委員・田中晋作)

問合せ:社会教育課
【電話】754・6674

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