■歴史民俗資料館特別企画展
開校150周年!池田の小学校(第1回)
歴史民俗資料館では、9月14日(土)から12月1日(日)まで、本市に小学校が誕生して150年を迎えるに当たり、小学校の歴史や教育について紹介する特別企画展を開催します。今号から4回にわたり、展示の内容を紹介します。
◇近代教育の誕生―学制の制定
江戸から明治に大きく世の中が変わり、学びの場にも大きな変化がありました。明治政府は、富国強兵政策の一環で、近代教育制度の確立に力を注ぎます。明治5(1872)年、フランスの教育制度にならって作られた、日本で最初の近代学校教育制度「学制」が制定されました。「学制」では、学問を修めることは、立身出世のためになると説かれ、全ての人に学校教育をいきわたらせることがめざされました。以降、全国各地に小学校がつくられていき、現在の池田市域には、明治8(1875)年までに4校が開校しました。
◇池田小学校の開校―「登龍門」石碑
現在の池田小学校は、市内で最初の小学校で、明治6(1873)年に豊島郡第一区第一番小学校として、建石町(現阪急文化財団池田文庫付近)に創設されました。第一番小学校には、池田、木部、東畑、西畑、才田、尊鉢の6カ村の子どもたちが通いました。翌年、開校式が挙行され、大阪府権知事渡辺昇(のぼり)が臨席しました。式を通じて、地域の人々に対し、学校の創設がいかに重要な事業であるかを印象付けたとされています。開校を記念して、渡辺の自筆による「登龍門」の字を刻んだ石碑が建立されました。登龍門は、立身出世や人生の岐路となるような関門を意味する言葉で、中国の「竜門という激流の川を登った鯉は龍になる」という伝承が語源となっています。この石碑は、現在も池田小学校の入口に建っています。側面には、府内の学校創設に尽力した、府学務課長日柳政愬(くさなぎまさのり)(三舟(さんしゅう))の漢詩が刻まれました。漢詩には、小学校設立によって「不学の家」がなくなり、多くの才能ある人材の輩出を可能にし、池田の繁栄を実現するという思いが込められています。
◇北豊島小学校の開校―紆余(うよ)曲折!?
現在の市域の南部、神田や石橋などの地域の子どもたちは、明治7(1874)年に、麻田村(現豊中市)に創設された豊島郡第二区第一番小学校(現豊中市立螢池小学校)に通いました。しかし、同地域の子どもたちが麻田村まで通うのは不便だったため分離して第二区第三番小学校(現北豊島小学校)が創設されました。校舎は、西市場村の中村周助控家(ひかえや)(現在地付近)に仮設されました。
明治9(1876)年、第三番小学校から神田村の学区が分離し、第九番小学校が創設されました。校舎は、かつて寺子屋が開かれていた常福寺(神田3丁目)に仮設されました。第九番小学校の来歴が記された「神田小学校沿革誌」によると、村の人々の学校への理解が薄く、校舎を新築することができなかった、と記されています。当時の小学校の校舎は、地域住民の寄付によって建てられることがほとんどであったため、村の人々の理解が必要不可欠でした。
その後、両校は、移転や改称、一時的に本校と分校の関係になるなど、めまぐるしく変遷しましたが、明治26(1893)年に合併し、現在地(豊島北2丁目)へ移転して、北豊島尋常高等小学校になりました。
次回は、残る2校、細河小学校と秦野小学校の開校当時の様子と併せて、明治時代の教科書について紹介します。
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