■戦没者の顕彰と地域の歴史
◇旌忠記念碑(せいちゅうきねんひ)の建立
五月山公園の一角には、現在も碑面いっぱいに、大きく「旌忠記念碑」と彫り込まれた石製の立派な記念碑が立っています。『新修池田市史』第3巻では、『豊能郡報』を典拠として、日清戦争後の明治34(1901)年4月、当時の相場駒次豊能郡長が池田町内にある豊能郡役所の北方小高い所に建立したもので、「国家のため忠死せし人の英魂を慰めん」として年々祭典を行い、遺族に喜んでもらうためにと説明しています。
さらに、この旌忠記念碑には、豊能郡(現在の豊中市・池田市・豊能町・能勢町の区域にほぼ該当)全域に関わって、戊辰戦争(明治1~2年)での戦死者1人、西南戦争(明治10年)での戦死者5人、そして、日清戦争(明治27~28年)とそれに続く「清国台湾守備中」の死者26人の「義魂」を合祀(ごうし)するとも記されています。
現在の池田市域については、西南戦争で北豊島村村田辰蔵、池田町山本弥助の2人、日清戦争とそれに続く清国・台湾守備中では、池田町丹波義松・横田朝七の2人が合祀されるとされています。ただし、これら氏名などは、現在碑面を見ても見当たりません。もともと刻まれていなかったのかもしれません。
◇池田と西南戦争戦没者
西南戦争では、明治10(1877)年2月中旬から9月下旬まで熊本県をはじめ九州各地で西郷軍側と官軍(明治政府)側とが激しく戦いました。
西郷軍側は、鹿児島県士族を中心に1万数千人以上とか、2万人以上。一方、官軍側は、徴兵制度に基づいて全国から集められた兵隊を中心に約6万人、戦没者は6千人を数えました。
現在の池田市に属する地域は政府が統治しており、ここに住んでいた人々は官軍側に組み込まれていたことは間違いありません。比例計算してみると約20人の若者が動員されたことになります。旌忠記念碑で記録された2人の死者はその中から出てきたのです。
一方、西郷軍側に付いた人はいたのでしょうか。もし、いたとすれば興味深いことですが、何も分かってはいません。ただ、彼らは「賊軍」となりますから、この記念碑に合祀されることはなかったでしょう。
ところで、市内の墓地には西南戦争での死没者の墓はあるのかどうか。現在では何も分かっていません。これはなぜなのでしょうか。
◇地域と戦没者
明治の陸軍創設期、大きな戦争はなかったのですが、怪我や病気で死去する軍人はたくさん出ていました。陸軍は遺体を埋葬し、毎年、日を選んで霊魂を慰め、鎮める招魂祭を催しました。当日は大勢の市民が賑々(にぎにぎ)しく陸軍墓地に集まりました。しかし、陸軍は死者を褒めたたえ、顕彰しようとはしていませんでした。西南戦争で戦死していても、当初は特に重視されることはなかったのです。
そうした中、明治16(1883)年、西南戦争での官軍戦勝を記念する立派な明治紀年標が大阪中之島に建造されます。官軍をたたえ、戦没軍人を顕彰する方向がここにはっきりと示されます。また次に起きた日清戦争では、遺族は郷里に立派な個人墓標や記念碑を建てていきます。戦没者の顕彰という国家の意思を地域で支える構図がこうして徐々に出現していくのです。
五月山公園に今も立つ豊能郡の旌忠記念碑も、このような国民の意識変化の中から生み出されたと見るべきでしょう。
(市史編纂委員会委員長・小田康徳)
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