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ふじいでら歴史紀行 203

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大阪府藤井寺市

【さまざまな歴史を刻んできた船橋遺跡(6)~古代の船橋遺跡とモノづくり~】
10月号では、7世紀以降寺院が数多く造営されはじめることに触れました。この大規模寺院造営事業は、それまでの手工業生産体制にも変化をもたらしたと考えられています。例えば、百済から新たに伝わった技術である瓦作りは須恵器工人(すえきこうじん)(須恵器を専門に作っていた人々)が関わっており、すでに日本で定着している技術と新たに伝わった技術が交流していました。
船橋遺跡でも、7世紀以降手工業生産の痕跡が見られるようになります。船橋遺跡のほぼ中央で現在の大和川の北側(河内橋の西北)で行った発掘調査では、飛鳥時代の建物群が見つかっています。ここでは、ガラス小玉の鋳型(いがた)が複数点出土しています。その他、鞴羽口(ふいごはぐち)(炉に付ける送風管の先端)、鉄滓(てっさい)(溶かした鉄のかす)、漆が入った壺などが出土しています。また、炉の下部構造の可能性が指摘される土坑(どこう)も見つかっています。これらのことから鑑みると、船橋遺跡の北側ではガラスや鉄、漆の工房が置かれていたのでしょう。
奈良時代に入っても、ここで鋳造関連の生産が行われていたようです。このことから、船橋遺跡に河内鋳銭司(ちゅうせんし)が置かれたのではないかと推定する意見があることは注目されます。鋳銭司は、律令国家により銭貨鋳造の際に臨時におかれた役所のことです。和同開珎(わどうかいちん(かいほう))などの皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)という奈良・平安時代の12種の銭貨を鋳造・改鋳するにあたり、近江・河内・山城(やましろ)・長門(ながと)・周防(すおう)などに設けられたようです。この一つである河内鋳銭司は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』和同二(709)年八月乙酉(いつゆう)条に登場します。銀銭の発行をやめて銅銭のみを流通貨幣とすること、河内鋳銭司の俸禄や賞与、叙位は「寮(りょう)」という官司に準じて行うことと記述されています。ここから、河内鋳銭司は発行後間もない和同開珎の鋳造に関わったと推定されています。
様々なモノづくりが行われた例には、奈良県明日香村の飛鳥池工房遺跡(あすかいけこうぼういせき)があります。ここでは、7世紀後半を中心とした時期に金属加工、ガラス、漆など様々なモノづくりが行われていました。特に飛鳥池工房遺跡で注目されたのは、富本銭(ふほんせん)という銅銭が作られていたとわかったことです。様々なモノづくりが行われた飛鳥池工房遺跡の例や船橋遺跡から鋳上げたばかりの感触がある皇朝十二銭が出土していることを踏まえ(※)、船橋遺跡に河内鋳銭司が置かれた可能性が考えられています。
船橋遺跡の北側になぜ工房が置かれたのでしょうか。この一帯に数多く作られた寺院に供給するためなのか…王権が主導して設置したのか…そして船橋遺跡の北側は飛鳥池工房遺跡のようにさまざまなモノが作られた一大工房エリアだったのか…大半が河床に眠った船橋遺跡には、こうしたたくさんの謎がまだまだ眠っているのでしょう。
(文化財保護課 河合 咲耶)
(※)
(1)溶かした金属を鋳型に流し込む
(2)金属が固まったら鋳型を外す
(3)はみ出した部分などの不要な部分を取り除いて磨く、というのが鋳造の大まかな工程作業です。
「鋳上げたばかり」とは、(2)の工程で終わっている((3)の工程まで行っていない)状態で、いわば失敗品もしくは製作途中のものです。失敗品や製作途中のものが流通するとは考え難いので、こうした状態のものが見つかるということは、そこで鋳造が行われていたと考えられます。

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