【百舌鳥・古市古墳群世界遺産登録5周年! 5.古墳群に人々が住み始めたころ】
藤井寺市内を歩いていると、住宅地のあちらこちらに緑の小高い丘が見えます。今から30数年前、藤井寺市の文化財専門職員として採用された私は、一人、市内を探索したことがあります。その際に、街の日常の風景の中に古墳がたたずんでいる姿を見て深い感銘を受けたことを覚えています。
このように、現在の百舌鳥・古市古墳群は周囲が住宅地となっている場所が多く、1600年ほど昔の古墳が造られた当時とは大きく環境が変わっています。では、現在のような景観は、どのように形作られてきたのでしょうか。古市古墳群について見ていきたいと思います。
古市古墳群のある場所は、もともと大小さまざまな形の古墳が集まる墓地として使用されていました。北西に接する津堂遺跡では同時代の大きな建物なども見つかっていますが、古墳が造られ続けた4世紀後半から6世紀前半は、古墳群内には限られた人々しか住んでいなかったようです。数棟の建物が建ち、土師の里の埴輪窯など数か所で、埴輪を焼く煙が立ち上っていました。
ところが、古市古墳群で古墳が造られなくなった後、6世紀末頃から、古墳の近くに建物がつくられるようになります。建物は数を増していき、8世紀頃には古墳と古墳の間にも建物が建つようになります。古墳群内にも多くの人々が住むようになるのです。
国立歴史民俗博物館名誉教授の広瀬和雄さんは、このような状態を、「古代の開発」と呼ばれました。まさに、現代のニュータウンのように、それまで古墳しかなかった場所に、多くの建物が建っていくのです。そして、「古代の開発」のためにつぶされた小さな古墳のあったことも、発掘調査で明らかとなっています。
古市古墳群は、その後も幾多の変遷を経つつ、貴重な歴史資産として現在に受け継がれてきました。多くの人々が暮らしている現在の状態は、以上に見たように6世紀末頃に起源が求められるようです。
(文化財保護課 新開義夫)
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