【唐櫃山古墳の発掘調査から (2)陪冢と古墳の形】
唐櫃山古墳を語るうえで、欠かせない要素を前回3つあげましたが、今回はそのうち、「陪冢(ばいちょう)」と「帆立貝形前方後円墳」について詳しく説明していきます。
まず、「陪冢」についてです。聞き慣れない言葉ですが、簡単に説明すると巨大な前方後円墳という主墳の周辺に付き従うように造られた古墳のことです(厳密に言えば、大きな古墳の堤に取り付くように造られた古墳、もしくは古墳の主軸に沿って造られた古墳のことを指しますが、例外も多いです)。主墳の被葬者(ひそうしゃ)の近しい関係の人物の墓、もしくは副葬品だけを納める塚(土を小高く盛り上げた丘)としての2つの機能が考えられます。
允恭天皇陵(市野山)古墳の周辺にある陪冢は、唐櫃山古墳のほかにも赤子塚古墳、長持山古墳、宮の南塚古墳、衣縫塚(いぬいづか)古墳、兎塚古墳、兎塚2号墳、潮音寺北(ちょうおんじきた)古墳、長屋1・2号墳など数多く所在していたことがわかっています。このうちの大半が失われてしまい、現在では唐櫃山古墳のほかに、宮の南塚古墳と衣縫塚古墳の3つが残るのみとなっています。
2つ目は、「帆立貝形前方後円墳」についてです。後円部と前方部の比率によって名称が変わり、前方部が短いものを帆立貝形前方後円墳、さらに前方部が短いものを造出(つくりだ)し付円墳と呼んでいます。
古墳の形は、中央政権との関係性、地位の高さで決まるものと考えられています。前方後円という形が中央政権との関係性が深く、一番地位の高いもので、帆立貝形前方後円墳が続くものと考えられます。
古墳の形から允恭天皇陵(市野山)古墳の陪冢をみると、前方後円墳(もしくは帆立貝形前方後円墳)は唐櫃山古墳のみ、そのほかは造出し付円墳や円墳、方墳です。このため、陪冢のなかでも唐櫃山古墳が突出した存在であり、允恭天皇陵(市野山)古墳の被葬者とより近しい関係であったことがわかります。今回は古墳の形から、陪冢のなかで唐櫃山古墳の地位が高いことがわかりましたが、次回は石棺といった埋葬施設からどのようなことがわかるのか、見ていきたいと思います。
(文化財保護課 泉 眞奈)
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