奈良時代の高槻は大半が摂津国嶋上郡に属し、現在の市役所にあたる嶋上郡衙(しまがみぐんが)が置かれました。
芥川西岸には、郡の役所「ぐうけ」を示す「郡家」、税をはじめとする郡内の物資が集まる港「こおりのつ」に由来する「高津」という地名があり、早くから周辺に嶋上郡衙が置かれたと推測されていました。
昭和40(1965)年以降、郡家新町の素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社から川西小学校にかけての発掘調査では、奈良時代の一般的な集落では見られない大きな井戸や、整然と並ぶ大規模な建物や倉庫群など、嶋上郡衙の実在を示す手掛かりが次々と見つかりました。
さらに、川西小学校の北側では、石組み井戸の底から「上郡(かみごおり)」と墨で書かれた土器を発見しました。「上郡」は嶋上郡を表すことから、この場所こそが嶋上郡衙の置かれた地であることが証明されたのです。
これまで見つかっていた倉庫群は、当時の税である稲を保管する郡の正倉であることが明らかになりました。また、素戔嗚尊神社の鳥居の額にある「神郡社(かみのこおりのやしろ)」という名は「上郡」から「神郡」に転じながら現代に伝わったと考えられます。
この1つの小さな土器の発見から判明した嶋上郡衙跡は、昭和46(1971)年に近畿地方で初めて確認された地方官衙(かんが)・郡衙跡として国指定の史跡となりました。
(埋蔵文化財調査センター)
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