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いにしえの風 斑鳩文化財センターだより

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奈良県斑鳩町

■大和の大型横穴式石室を有した古墳の被葬者像とは…
今月号では、12月15日(日)まで斑鳩文化財センターで開催中の秋季特別展と、11月16日(土)開催予定の藤ノ木古墳発掘調査40周年プレイベント「大和の大型横穴式石室の被葬者像(ひそうしゃぞう)にせまる」の被葬者像について紹介します。

◇大和の大型横穴式石室
今回の展示会とシンポジウムでは、(1)藤ノ木古墳(2)牧野(ばくや)古墳(広陵町)、(3)植山古墳(橿原市)、(4)五条野丸山古墳〔畝傍(うねび)陵墓参考地〕(橿原市)、(5)赤坂天王山古墳(桜井市)の5基の古墳を取りあげています。これらに共通している要素は、藤ノ木古墳が造られた6世紀後半から7世紀初め頃に造営され、大型の横穴式石室に刳抜式家形石棺(くりぬきしきいえがたせっかん)を有している点と、被葬者像として皇族があげられている点です。

◇各古墳の被葬者説

(1)藤ノ木古墳には、昭和60(1985)年の第1次調査以降、昭和63(1988)年の第3次調査にかけて、多くの被葬者説が提唱されました。その代表的な説をあげると、皇族説(穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部(やかべ)皇子の合葬説、崇峻(すしゅん)天皇など)、豪族説(蘇我(そが)氏、物部(もののべ)氏、膳(かしわで)氏、山部氏、額田部(ぬかたべ)氏、大原氏)、百済(くだら)王族説などがあります。いずれの説も決め手を欠くため、現在も明らかになっていませんが、古墳の造営年代、副葬品(ふくそうひん)の優位性、石棺内に二体の埋葬、石室石積みのあり方などのさまざまな状況から、蘇我馬子(うまこ)によって暗殺された穴穂部皇子と宅部皇子の合葬説が有力視されています。

(2)牧野古墳には、『延喜式(えんぎしき)』で「成相墓(ならいのはか)」と称されている舒明(じょめい)天皇の父にあたる押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおおえの)皇子の墓とする説があります。亡くなった年代は不明ですが、この墓の所在する広瀬郡のなかで、この古墳以外にふさわしい古墳がない理由から有力視されています。

(3)植山古墳には、長方形の墳丘に二つの石室がつくられ、最初につくられた東石室に推古天皇の子の竹田皇子が葬(ほうむ)られ、西石室に推古天皇が初めに葬られた墓との説があります。東石室の石棺内は骨も副葬品もない空(から)の状態でした。こうしたことから、『古事記』の推古天皇と竹田皇子が、現在の大阪府太子町の「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」に改葬された記事に一致しているというのが主な理由です。

(4)五条野丸山古墳には、国内最大長の横穴式石室を有することや家形石棺の位置関係から、欽明(きんめい)天皇とその后の堅塩媛(きたしひめ)の合葬説があります。一方、『日本書紀』推古天皇28(620)年の堅塩媛の葬礼(そうれいの記事などから、宮内庁が治定(じじょう)している「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」を肯定し、蘇我稲目(いなめ)とその娘の堅塩媛との合葬説もあります。

(5)赤坂天王山古墳には、崇峻天皇5(592)年に蘇我馬子によって暗殺された崇峻天皇の墓とする説があります。宮内庁が治定している「倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)」は寺の跡であるとする説があり、現在の地名「倉橋」付近での墳丘、石室、石棺の観点から、赤坂天王山古墳を崇峻天皇陵とする説が有力です。

展示会では、これらの古墳に関係する出土遺物や複製品を展示しているほか、パネルで紹介しています。
ぜひ、この機会にご観覧ください。

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