■藤原実方朝臣~みちのくに落ちた明星~
愛島塩手にある藤原実方(さねかた)の墓は、かつて陸奥守(むつのかみ)として東北にやってきた貴族、藤原実方が葬られたところとして知られています。実方は小倉百人一首の51番「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじなもゆる思ひを」を始め、多くの和歌や逸話を残し、不運の最期を遂げた歌人として広く知られています。千年前に、京を離れ、遠くみちのくへやってきた実方はどんな人物だったのでしょうか。
実方の生年(せいねん)は不詳です。父は侍従(しじゅう)藤原定時(さだとき)、母は左大臣源雅信(まさのぶ)の娘です。由緒ある家柄の出自で、彼の祖父は小一条(こいちじょう)左大臣として知られていた藤原師尹(もろただ)です。父が早世(そうせい)したため、実方は叔父の藤原済時(なりとき)に扶養されることとなりました。
天禄3(972)年、実方は最初の役職である左近将監(さこんのしょうげん)という武官に任命されました。その後、侍従、右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)、左近衛少将(さこんえのしょうしょう)、左右近衛中将(さうこんえのちゅうじょう)を歴任し、公卿(くぎょう)への昇進コースを着々と進んでいきました。その間、実方は宮中の諸儀礼及び大臣家の饗宴(きょうえん)に参列し、献舞(けんぶ)、射手(いて)、勧盃(けんぱい)などの役目を務めました。また、天皇の勅使(ちょくし)として、宇佐神宮(うさじんぐう)、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で奉幣(ほうへい)を行いました。臨時祭の試楽(しがく)(祭礼などに行われる舞楽の予行演習)での献舞の際には、舞いながら呉竹(くれたけ)の枝を折って冠に飾るその優美な姿を見て、人々は感服したという逸話が残されました。
こうして公卿への道を歩み進んでいた実方は、長徳元(995)年に、陸奥守に突然任じられ、同年に陸奥国に赴任しました。実方の陸奥守としての功績はよくわかっていませんが、陸奥でも多くの逸話や和歌を残し、長徳4(998)年に任地陸奥にて亡くなったとされています。
藤原実方の事績については令和8年度刊行予定の新『名取市史』第1巻「原始・古代」に収録する予定です。どうぞご期待ください。
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