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【特集】祝!宮崎県置県140年

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宮崎県

令和5年で置県140年を迎えた宮崎県。
今回の特集では、宮崎県独立のために奮闘した先人たちの功績、県人たちの歩み、さらに、置県140年を記念し、初開催となる宮崎県人会世界大会をフォトレポートします。

突然ですが皆さん、本紙掲載の写真の人物をご存じでしょうか?
川越進。現代の宮崎県を語るにはこの人を欠かすことはできません。
少しばかり宮崎県の歴史をのぞいてみましょう。

■「宮崎県の父」川越進
明治6年(1873年)に誕生した宮崎県は、廃藩置県政策により、明治9年(1876年)、鹿児島県に併合されることに。その翌年には、西南戦争が勃発し、主戦場となった日向国は荒れ果て、人的にも経済的にも多大な被害を被りました。
このままではいけないと宮崎県の誇りとアイデンティティを取り戻すために立ち上がった人物が、「宮崎県の父」といわれる川越進です。
川越進は、嘉永元年(1848年)に現在の宮崎市清武町で生まれ、最初の宮崎県創設とともに県職員となりました。しかし、宮崎県が鹿児島県に併合され、退職。一時は、地元で養蚕業を営んでいたことも。その後、西南戦争が始まり、川越も参加。そこで、安井息軒の教え子たちと出会い、その縁が分県運動でも生かされることになります。

■私財をも投げ打った分県運動
分県運動は、西南戦争終結後も戦争時の不満や、県庁のある鹿児島県から遠いこと、道路や学校の整備などの予算配分が旧薩摩に比べて少ないことなどの理由により、次第に高まっていきます。
そんな中、川越は鹿児島県からの独立を目指し、明治13年(1880年)に鹿児島県初の県会議員選挙に立候補。32歳の若さで議員に当選し、分権運動のリーダーとして駆け回ることに。県内をはじめ、東京でも宮崎出身者を中心に独立の必要性を熱弁し、明治16年(1883年)鹿児島県会(現:鹿児島県議会)の議長になります。川越の熱心な活動が実を結び、日向国選出の議員が少ない中、圧倒的多数の賛成を得て、ついに県会で「日向国分県建議案」が可決。
その後、宮崎県の分県再置が通達され、晴れて日向国は宮崎県として再置。現在の宮崎県の原型が誕生しました。
そして、川越は、初代の宮崎県会議長に就任し、養蚕や茶の生産などのさまざまな振興策を提言し、宮崎の発展に寄与しました。
川越をはじめとした有志が、私財をも投げ打ち、繰り広げた分県運動のおかげで、いま、私たちは宮崎県で過ごすことができています。これに感謝し、責任を持って後世に魅力ある宮崎を残すことが今を生きる私たちの責務です。

県では、原則として、宮崎県が再置された5月8日に川越進翁胸像献花式を行っています。
川越進をはじめとする先人たちに感謝しつつ、本県発展にまい進することを誓う機会としています。

■〔ちょこっと豆知識〕県政を支え続ける県庁本館の秘密
宮崎県庁といえばこの建物。
県政を長い間支える県庁本館は、今年で91年目を迎えました。
昭和初期に建設され、同じ時期に建てられた建物はすでに消え去った物が多い中で、長い時間県政を支えています。全国にある都道府県庁舎の中では、大阪府、神奈川県、愛媛県に次ぐ、4番目に古い庁舎で、九州では、唯一戦前から残る最古の庁舎です。
また、平成29年(2017年)5月2日付けで、国登録有形文化財(建造物)に登録をされています。

■世界に旅立った宮崎県人たちの歩み
日本人の海外移住は、明治維新以降本格的に始まりました。本県からも戦前戦後を通して、4000人もの県人がブラジルなどの海外へと移住していきました。多くの移住者が当初慣れない風土や過酷な労働に苦しめられましたが、そのような中でも懸命に働き、徐々に現地での経済的地位や、社会的信頼を得るようになりました。
こうした中、移住者が多かったブラジルでは、同郷の県人同士が気軽に語り合うことを目的として、ブラジル宮崎県人会を結成。その後、アルゼンチンやアメリカのほか多くの県人が集まる世界の各地に県人会が結成されました。現在、世界各地に多くの宮崎県人が広がっており、20の県人会が設立されています。また、日本各地においても多くの宮崎県人が活躍しており、国内には、15の県人会が設立されていて、それぞれの地域で本県の魅力発信などに取り組んでいます。

■宮崎県人会とは?
宮崎県人会とは、宮崎から遠く離れた地域で暮らす本県出身者たちが、親睦や交流を深めることを目的に結成された団体のことです。各地の県人会では、同郷の県人同士というつながりを大切にしながら、宮崎弁で気軽に語り合い、故郷への懐かしさを胸に、親睦を深めています。また、現地のお祭りなどで、「宮崎県PRブース」の出展など、本県の魅力発信などに取り組んでいます。
最も歴史のある県人会は、在京県人会で、明治39年(1906年)に設立されました。
ポーツマス市(アメリカ)で日露講和条約を締結し、帰国した日南市出身の小村寿太郎の慰労会を開催したことがきっかけだったそうです。

▽国内外に広がる宮崎県人会
国内:15
海外:20
※詳しくは本紙をご覧ください。

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