11月16日、高鍋町で嚶鳴フォーラムin高鍋2024が開催されます。ふるさとの先人を通して、まちづくり、人づくり、心そだてを目指す全国11の自治体が一堂に会するこのフォーラムの今年のテーマは高鍋が生んだ偉人「石井十次」。本誌では、日本で最初に孤児院を創設した人物であり、「児童福祉の父」と言われている石井十次の生涯に大きく影響した学問や信仰、人との出遇いをたどります。
【慶応元年誕生 生い立ちと時代背景】
左(本紙PDF版4ページ参照):父・万吉( まんきち)
右(本紙PDF版4ページ参照):母・乃婦子( のぶこ)
石井家は軽輩の藩士で、農業にも従事していました。
慶応元年(1865年)4月11日、明治が始まる3年前のことです。児湯郡上江村馬場原に石井万吉と母・乃婦子の間に待望の男子として生まれました。
十次が生まれる前年の元治元年(1864年)から1865年にかけて、徳川幕府は各藩に長州征伐を命じており、高鍋藩も出兵の準備を進めていました。このような波乱の時代に、十次は誕生したのです。
■高鍋・宮崎時代 1865~1882
十次は4歳から寺子屋で読み書きを習い、6歳になると、明倫堂行習斎で朱子学を学び始めます。9歳から12歳までは、父の仕事の都合により、宮崎学校の教師・堤長発のもとに預けられ、彼の薫陶を受けながら宮崎学校に通いました。
その後、明治10年に西南戦争が起こり、宮崎県は混乱に陥ります。そのため、十次は再び高鍋に戻って高鍋学校で学び、一等賞で卒業しました。
その後、晩翠学舎で城勇雄の指導を受け、論語を学びました。14歳で海軍士官を志望して上京したものの、脚気を患って翌年には帰郷しました。
十次は16歳で内埜品子と結婚。父のはからいで宮崎警察署の巡査となりましたが、病気になり宮崎病院で診察を受けます。この時の医師・荻原百々平との出遇いは十次の一生に決定的な影響を与えました。
百々平は、「病気は治してやる。心をいれかえて医者になれ。3年間学資を貢いでやる。医学を学ぶか?」と十次をさとし、また、キリスト教を説いて信仰に生きることを奨めました。
■仁と愛の実践 岡山時代 1882~1909
十次は17歳の9月、百々平の勧めで岡山県甲種医学校に入学し、医師を目指しました。しかし、代診を務めた上阿知の診療所で人生の大きな転機を迎えます。巡礼中の貧しい母子と出会い、その男児を引き取ったのです。その時、十次は22歳。十次が貧孤児救済に心が傾いていることを知った両親は猛反対し、説得のため義兄・岩村真鉄を十次のいる岡山へ送りました。そこで十次の苦衷を察した真鉄は折衷案を提案します。一年半医学校に通いながら孤児救済事業を続けていた十次でしたが、明治22年十次23歳の時、孤児救済・教育への専心を決断し、6年間学んだ医学書を焼いてしまいます。この専心への決断と実践は、明倫堂や晩翠学舎で学んだ「仁」、キリスト教で学んだ「愛」、この二つの思想から形成された人格から来た行為でした。
十次はその後、岡山で立ち上げた孤児院で孤児救済に取り組みます。その岡山孤児院で養成していたブラスバンドは、後に音楽幻燈会を組織して日本国内各地を公演して巡り、孤児院の大事業の一つとなっていきました。十次の生涯と孤児院の運命に多大な影響を与えることとなる大原孫三郎と出遭うのは、明治31年7月、岡山県倉敷町での公演のことです。明治33年以降、孫三郎は十次と親しくなりました。その後、十次の志を評価して支援を続けました。
■大阪進出・茶臼原時代と最期 1909~1914
明治39年に大阪市北区に大阪事務所を開設しました。真鉄達の協力を得ながら高鍋の茶臼原台地を買収していた十次は、多くの児童を茶臼原へ移す考えでしたが、農作業に適しない児童は大阪で生かそうと、日本橋地区にある貧民街で社会事業を興すことを決めました。明治42年に愛染橋近くの古い製材所を借用し、その時の秘書・柿原政一郎は改造を担当して、夜間学校と保育所を開設し、昼間働きに出る母親たちを大いに支えました。
明治41年、十次は重い腎臓炎を患いながらも、教育環境、農業生産、事業経費などの面から孤児院の経営を岡山から茶臼原へ全面移転することを決意。同年の秋から移転が開始され、明治45年に移転が完了します。
大正3年、十次は腎臓病が悪化。翌年、宮崎から恩師の百々平も駆けつけますが、1月、危篤状態となります。十次の長女、友子が男児を出産したという岡山からの電報を受け、目をつむったままかすかに頷いた十次はそのまま静かに永眠しました。享年48歳でした。
○左(本紙PDF版4ページ参照) 堤長発(つつみながあき)
明倫堂を卒業後、藩命で江戸へ行き、東京大学の前身の学校で学び、後に児湯郡長に、その後は宮崎農工銀行の初代頭取となりました。
○右(本紙PDF版4ページ参照) 城勇雄(じょういさお)
明倫堂教授を務め、高鍋藩家老も務めた優れた漢学者。十次の行動の随所にみられる「仁」は晩翠学舎で身に着けたと考えられます。
○荻原百々平(おぎわらどどへい)
百々平は高鍋町・筏生まれ。家業の藩医を継いだ後も、宮崎医学書教授、日向病院設立、宮崎県医師会長を務め、宮崎県の医療行政に貢献。十次との約束通り俸給を割いて学資を送りました。十次は百々平を心から尊敬し「閣下」と呼びました。
○岩村真鉄(いわむらまがね)
十次の姉静子と結婚し、十次の義兄となりました。十次を支援し、茶臼原台地の買収に協力、岡山孤児院の会計事務を担当し住居建設や開墾など院児と辛苦を共にしました。十次の永眠後も孤児院を支え続けました。
○大原孫三郎(おおはらまごさぶろう)
大実業家として活躍。十次の心友。孫三郎は、「根本の精神は主義が一貫し改めることにも大胆で、何事にも確信をもって実行の忠実」と十次を評価。精神・財政面で十次を支援し続け、十次永眠後、岡山孤児院の事業を継承しました。
○柿原政一郎(かきばるせいいちろう)
政一郎は政治家であるとともに実業家、社会事業家でもありました。師と仰いだ十次とは親戚にあたり、少年時より身近に接していました。病を得て大学中退した政一郎は、十次の命をうけて倉敷紡績会社に入社。十次の心友である大原孫三郎社長と十次の秘書を務めながら、手足となりブレーンとなり事業を支え続けました。高鍋町名誉町民。現在の柿原政一郎記念高鍋図書館は、政一郎が高鍋町長時代に建設して町に寄贈したものです。
《イベント告知》
高鍋町歴史シンポジウム・嚶鳴フォーラムin高鍋
2024・第32回石井十次顕彰のつどい
とき:令和6年11月16日(土)
ところ:たかしんホール
主催:高鍋町・一般財団法人自治総合センター
参加費無料(要参加申込)、申し込みは11月1日(金)までに文化係(【電話】23-3326)へ
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