文字サイズ
自治体の皆さまへ

知っておきたい上関 ~残したい大切なひと・まち・こころ~

18/42

山口県上関町

上関町在住のシニアの方々にお話を聞き、後世に伝えていきたい事や守りたい技術、ふるさとへの想いなどをお伝えするコーナー。
読んでくださる皆さまの、心の栄養となりますように。

前回に引き続き、今月も安村弘さんにお話を聞かせて頂きました。

弘さんが準備してくださったたくさんの資料。その中の1冊「追懐:歳月の流れ」が目をひきます。それは弘さんの父、安村長(たけし)さんが人生を振り返り書いた文章を、弘さんがまとめた自叙伝です。「全部書き終える前に亡くなったのでとても残念。最後まで読みたかったね…」と弘さんと葉子さん。弘さんは上関に移り住んで改めて、父の手記と遺された資料をたどる作業をしてきたそうです。
「上関の特産品として有名な車海老。その種苗や栽培漁業の研究と事業化に父がどれだけ力を注いだのか、その仕事内容も明らかになり、ようやく理解できてきたよ」と弘さん。この取材の翌日もご夫妻で車海老養殖発祥の地秋穂(弘さんの出生地でもある)の栽培漁業公社を訪れ、サプライズの出会いと新たな学びがあったそう。
実は弘さんの父、安村長さんは知る人ぞ知る「栽培漁業」のスペシャリスト。丁寧にまとめた研究資料と、民族学者ばりの漁村への調査記録等から、そのすごさに驚かされます。

■つくり育てて獲る漁業へ
「栽培漁業(中間育成放流事業)」は、水産資源の持続的な活用のため、獲る漁業からつくり育てて獲る漁業へをモットーに、昭和35年頃から瀬戸内海で始まったプロジェクト。山口県では全国塩田整備を機に、秋穂の花香塩田跡を利用して車海老の養殖が始まりました。現在では車海老以外にもタイやヒラメ、キジハタ、トラフグ、クロアワビ等々が中間育成され、海に放流されています。長さんが遺した資料を見ると、栽培漁業の研究はもちろん、事業化までの道のりが決して平坦ではなかったことが分かります。

■車海老養殖のはじまりと人生の転機
そもそも車海老の養殖は、明治時代に天然の稚エビを獲って育てる「畜養」から始まりました。山口県の秋穂で始めたのが時重菊次郎氏。大正9年には秋穂に8カ所の養殖場があり、大正13年水産試験場瀬戸内海分室が開設、車海老やアサリの養殖試験が行われます。
そして昭和17年、萩出身の藤永元作農学博士が車海老の生態を明らかにし、世界で初めて卵から孵化させて育てる人口養殖に成功しました。しかしその後の台風や大東亜戦争などで実験は頓挫しますが、藤永博士や内海水産試験場の場長でもある前川兼佑農学博士は、養殖の事業化に向け研究を続けました。その前川場長との出会いが長さんの人生を大きく変えることとなったのです。

■県庁から試験場の研究へ
長さんが山口県庁漁政課に勤務し4年目の頃、前川場長が何度も来庁、「試験研究の場で自分を活かせ」と熱っぽく口説かれたのだと手記には記されています。「第六次産業も視野に入れ漁業経営の論文を書き続けた父は、経済と経営の視点も持っていました。もしかすると前川場長は父の経営感覚を感じ取っていたのかもしれませんね」
長さんは熱意にほだされ、遂に秋穂の山口県内海水産試験場へ転勤。手記にて「行政機関から研究機関への人生の転機であり、前川氏との一生のお付き合いとなった」と当時を振り返っています。実は長さんは釜山水産専門学校(現下関水産大学校)の第一期生であり、その後東京水産大学校へ進学、戦後は大分県臼杵水産学校の教員として勤務するなど、漁業全般に通じた人物でもありました。
水産試験場・栽培漁業公社・栽培漁業センターの目標は種苗・養殖を成功させるだけでなく、収益が取れる事業に繋げることでもあります。長さんは山口県の漁業を全て調べようと一念発起、漁村へ出向き漁具や漁法等を聞き取り記録し、漁村経済の実態を調べていきました。丁寧な漁法の図や内容から、几帳面な長さんが漁村で真剣に取材をしていた様子が想像できます。
そして地域の特徴や魚の生態はもちろん、種苗生産から中間育成、放流→放流効果まで細かく調査研究し、後に県下8地域に「栽培漁業振興協議会」が設立されました。そのひとつが上関の「光・熊毛地区栽培漁業センター」なのです。

■家族よりも水槽を… 熱き仕事人
現役時代は、仕事中心の父だったと語る弘さん。「事業化前の調査・試験期間ですから、ちょっとのミスが命取り。365日水槽を見守るその責任はとてつもなく大きかったでしょう」というのも車海老はとても繊細。病気になると全体に感染が広がり処分しなければならないのだそう。「車海老の養殖はとても難しい。小さなことで一度に全てがなくなる。靴底からも感染するので十分気を付けなければいけない」と、常々言っていた父の姿が記憶に残っているそうです。
「後に、当時は家族子どもより水槽を大切にしなければならなかったので申し訳なかったと父に謝られた時は驚きました。でも父は私欲や名誉ではなく、本当に情熱にあふれた人でした」と弘さん。今こうして振り返り、誠実で勤勉だった父の偉大さを改めて感じているそうです。
長さんは昭和42年から「山口県外海水産試験場」の場長を務めた後、昭和56年に退職し、最後の奉公という気持ちで、山口市の社団法人山口県漁村振興協議会(現公益社団法人山口県栽培漁業公社)の常任理事に就任、また県に広がる漁業協同組合にも技術支援を続け、昭和63年に上関に戻ります。そして平成7年には昭和30年代に調査した貴重な記録が晴れて「山口県の漁業解説~特に漁具・漁法、記録集~」としてまとめられました。

■道をひらく
長さんが残した本や資料の中に、古い文庫本「道をひらく 松下幸之助著(昭和42年発行)」があります。弘さんがこの本を見つけた時、これは自分へのメッセージだと感じたそう。「まだまだ学びなさいと言ってくれているのでしょう」今こうして資料を解読整理することも学ぶということだと弘さん。長さんのバイブルの1冊は、弘さんによってその心も大切に引き継がれています。
「父は退職後、上関で暮らすことができて幸せそうでした。そして上関の栽培漁業センターの皆さんの頑張りを、また上関の特産として車海老が広まってきたことを父も心から喜んでいると思います。私も父のように熱意と誠意、創意をもち、感謝の気持ちを忘れず、ここ上関で生きていきたい」と締めくくりました。

今回は弘さんから亡き父の長さんを取材という特殊な形で、内容も簡単ではありませんでした。しかしこれだけの緻密な調査研究と、しっかり練られた計画があったからこそ道が開け、現在の県内の栽培漁業の形があるのだと、関係者ではない私が感動を覚えるほどでした。そして長さんの手書きの自叙伝から誠実な人柄を感じ、素晴らしい生きざまを見せて頂けた取材でした。
長さん、長さんが切り開いた道は今もしっかり続いています…。

取材:林未香

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU