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ふるさと歴史アラカルト

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山口県岩国市

■仕事に追われる村役人

江戸時代の岩国領は、横山・錦見・今津・川西といった城下町と89の村から成り立っていました。政治の中心地は領主が住む横山ですが、町や村にも役人が勤め、行政を取り仕切りました。そういった役人は、地域で有力な存在となりましたが、良いことばかりではなかったようです。今回は、関戸村の村役人の様子を見てみましょう。
山陽道沿いに位置する関戸村は、宿場町(しゅくばまち)として栄えました。関戸宿は長州藩や岩国の東端の宿であり、山代(やましろ)方面へと延びる石州街道(せきしゅうかいどう)(岩国往来)にも近く、通行量の多い宿場町でした。
その関戸村の村役人を、江戸時代末期に務めた人物に重富秀三郎(しげとみひでさぶろう)という人がいました。秀三郎は、村役人の最重役である庄屋(しょうや)に次ぐ立場の刀祢(とね)を務めていました。一般的な村における刀祢の仕事は、村内の年貢やインフラの整備を主導する庄屋の補佐ですが、宿場町も抱えている関戸村では、関戸宿利用者の受け入れも重要な役目の一つでした。実際、秀三郎の日記を見ると、大名家一行の急な宿泊のために、食事や寝具の準備に奔走したことなどが記され、突発的な仕事も多く、負担が大きかったこともうかがえます。
そして秀三郎が刀祢を務めてから23年が経った慶応4(1868)年、刀祢を辞退したいという旨の進上書(しんじょうしょ)を提出します。このとき秀三郎は、刀祢に加え目代(もくだい)(村役人の一種)、下山守(しもやまもり)(山の管理業務)と三つの役目を兼務していました。秀三郎は、自身が多くの役目を兼務していることは恐れ多いことだという理由で、体調への不安も添えながら、三つの役目のうち刀祢の辞退を申し出ています。この書面は庄屋に提出された後、さらに上層の役人に受理され、互選によって新しい刀祢が決められました。
江戸時代の岩国における村役人については、体系的な資料がなく分からないことが多いですが、断片的に分かる日常や仕事ぶりには、現代人にも似た部分が見られ、歴史の面白さを感じてもらえるのではないでしょうか。

・7月15日(祝)まで企画展「岩国徴古館新収蔵資料展2024」を開催中です。関連資料を展示しています。

▽岩国徴古館(いわくにちょうこかん)
昭和20年に旧岩国藩主吉川家によって建てられ、その後岩国市に移管された市立の博物館
住所:横山二丁目7-19
【電話】41-0452
休館日:月曜(祝日の場合はその翌日)

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