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人権コラム No.133 つながり ぬくもり

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山口県平生町

『終わり』

私が「終わった」と思ったのは、昭和二十年八月十五日十二時に終戦の玉音放送を聞いたときです。小学生の私には聞き取りにくい放送でしたが、これで戦争が終わったと思ったことは事実です。
「終わり」には、義務教育、学生時代、独身生活などの儀式的なものもあれば、スポーツの試合、人との交流、仕事などの人為的なものもあります。
終わり方が、喜びを伴うときは、次への目標に向けていち早く進むことができます。
しかし、人生は常に順風満帆とはいかず、失敗や、さまざまな障害などで終わることもあります。この場合、先行きが見えず悲観的となり、この世の終わりかと思うときもありましょう。悲しい終わり方は生涯を通じて幾度も起こりますが、その際の心得として仙台育英高校の須江監督の次のような言葉があります。
【人生は目標が達成することはほとんど無く、失敗や挫折の連続です。そして、負けることでしか学べないで、勝った時は学べないと思っています。だから失敗したり理想がダメだったりしたときに、人生が好転し始めるのです。人生は敗者復活戦で、人生は負けたときから始まり、うまくいかなかったときこそ成長できるチャンス。だから、負けたときこそ人間の価値が出るので、グッドルーザー(負けても潔い敗者)たれ。】
生涯にわたり、良きにつけ悪しきにつけ、終わりはたびたび起こりますが、その時を人生の節目と呼んでいます。節といえば、節ごとに成長点があり、それぞれの節で成長している竹の節が思い浮かびます。私たちも、幼少から高齢者になるまでの間にたびたび苦難の節目に遭遇します。その節目ごとで学んだことを基にして、それぞれの節目を乗り越えながら成長することが生きるということでしょう。
最も厳しい終わり方は人生の終焉でしょう。
ところで、死とはすべてが皆無となることなのでしょうか。人の機能には、考える、記憶する、覚える、記録するなどがあります。その機能により、死といえども終わりではなく、亡き人の面影は残された人々の心の中に残り続けるのではないでしょうか。
私が終わったという戦争も、私の心に二度と戦争はしてはいけないとの思いがある限り、終わっていないということなのでしょう。
困難に出会ったときに、終わったと諦めるのではなく、諦観(ていかん)(あきらかに)することです。
そこから導き出したものを基に、風雪に耐えながら、しなやかに美しく、力強く成長する竹のように、自分の人生を拓いていきたいものです。

平生町人権教育推進協議会
(事務局:町教育委員会)

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