■柳井の大寺院(3)・氷室ケ岳山麓の高山寺(こうざんじ)
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
中世の柳井における巨大な寺院を紹介しています。今回は伊陸の日照山(にっしょうざん)高山寺について紐解いてみましょう。
鎌倉時代になると武士の精神に相応しい禅宗が柳井地域にも伝わってきました。京都建仁寺の棊山賢仙(きさんけんせん)という高僧が、伊賀道(いがぢ)(伊陸)に来て開山(寺の創始者)になったのです。賢仙は臨済禅が民衆救済に背を向けて権力と結びついたことに嫌悪感を持ったのでしょう。正道に戻るべく、霊峰である氷室岳の麓を座禅の適地として瞑想にふけったのです。しかし中央政権が地方に隠遁(いんとん)する高僧を放っておくはずはありません。建仁寺からは最高位の席を用意しての就任依頼が届きました。賢仙は惜しげもなく依頼を断ります。続いて後醍醐天皇からも帰京の要請がありましたが、仮病を理由に応じません。さらに足利尊氏と夢窓疎石(むそうそせき)からは、京都嵐山に天龍寺を創建するので管主となるために帰京せよとの書状が届きますが、これも断ります。賢仙にとって伊陸には、天皇や将軍からの依頼を断るだけの魅力があったのです。民衆が誠実に働く姿と自然に囲まれての安らぎが、高僧の心を捉えて離さなかったのです。
やがて貞和(じょうわ)元(1345)年、室町幕府は高山寺を周防安国寺(あんこくじ)に定めました。周防国で最高位の寺院に位置づけられたのです。高山寺に諸堂が建ち並びます。総門・山門・仏殿・開山堂・座禅堂・僧堂・衆寮(しゅりょう)・庫裡(くり)・浴室・雪隠(せっちん)などの建物が軒を連ねました。さらには16の付属寺院である塔頭(たっちゅう)が建ちます。常光院・竜福院・竜光院・祇寿(ぎじゅ)院・天沢(てんたく)院・福寿院・宗心(そうしん)院・長岩(ちょうがん)院・萬昌院(ばんしょういん)・真光院・田福院・松前院・五樹庵(ごじゅあん)・正足庵(しょうそくあん)・恵照庵(えしょうあん)・牧樵庵(ぼくしょうあん)です。
隆盛を極めた高山寺でしたが、弘治(こうじ)元(1555)年に起きた小早川軍の侵攻を機に衰退します。諸堂が解体され、往時の建物は今や開山堂のみになりました。
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