文字サイズ
自治体の皆さまへ

〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

23/35

山口県柳井市

■大内政権下の柳井(1)・楊井庄の地頭職と代官職
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
中世の楊井津(やないつ)は、京都の蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)の荘園で、楊井庄(やないのしょう)と称されました。現在は「柳井」と表記しますが、中世には「楊井」と記していました。今回は楊井庄を統括した地頭職や代官職について見てみましょう。
東大寺に保管されている文書には、鎌倉時代の寛元(かんげん)2(1244)年の楊井庄では、地頭が楊井(やない)太郎(たろう)であると記されています。楊井に居住した地侍が、地名を姓にしていたのです。そして室町時代になると地頭職の上位に代官職が置かれ、代官が地頭に指図をすることになります。楊井庄の代官職には、初めは周防国の安国寺である伊陸の高山寺(こうざんじ)が任命されました。高山寺は宗教活動に限らず、行政的な実権をも手にしていたのです。高山寺が楊井庄の管理をし、地頭の楊井氏が実質的な現地業務をしていました。楊井庄で徴収した米を、蓮華王院に送り出していました。ところがある年に、蓮華王院への米の上納を高山寺が怠(おこた)ったことがありました。おそらく天災に襲われて、米が収穫できなかったのでしょう。楊井を傘下に収めたい山口の大内氏にとっては好都合です。職務怠慢を理由にして高山寺の代官職を取り上げ、家臣の仁保(にほ)弘有(ひろあり)に代官職を与えました。仁保氏は関東から移入して来た平子(たいらご)氏ですが、山口東隣の仁保荘に居館を構えたことから仁保氏と称し、やがて大内政権に組み込まれていったのです。仁保弘有は、楊井庄からの租米として銀50貫文を毎年蓮華王院に送りました。
応仁(おうにん)元(1467)年に応仁の乱が勃発すると、大内(おおうち)政弘(まさひろ)は大軍を楊井津に結集させて出陣します。もちろん楊井庄の代官である仁保氏も、その軍船に乗って上京しました。地頭である楊井(やない)盛友(もりとも)や息子の国盛(くにもり)も従軍して、おおいに戦果をあげました。このようにして楊井庄は、完全に大内の政権下に入ったのです。

問い合わせ:文化財室(サンビームやない内)
【電話】22-0111

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU