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第4回 二代藩主正誠(まさのぶ)の時代I(専制藩主の地位確立)
江戸幕府の成立後、家の安泰を図るため、江戸幕府徳川家の忠臣らとの結び付きを強めた羽州新庄藩戸沢家。11代続いた藩政の礎は、その後どのように築かれたのでしょうか。今回は、初代藩主政盛の亡き後、戸沢家存亡の危機を乗り越え、二代藩主正誠がどのように専制政治を確立していったのかを学びます。
■初代藩主政盛の逝去と戸沢家存亡の危機
新田・鉱山開発や年貢米、その他物産の上方移出などの政策により、藩財政の基礎を確立した初代藩主政盛でしたが、1644(寛永末)年頃から病床に伏す日が続きました。政盛は、新庄に入部する前に、徳川家忠臣の鳥居家から巨川院(きょせんいん)(真室御前)を正室として迎えていました。政盛と巨川院との間に子どもはいませんでしたが、側室との間には、後の二代藩主正誠を含めた5人の子どもがいました。
政盛は鳥居家との縁をつなげ、跡継ぎとするために、側室との間に生まれた女子に鳥居忠政の次男定盛を婿養子として迎えました。しかし、この定盛に不幸にも先立たれてしまいました。さらに政盛は、定盛の娘に鳥居家から婿を迎えようとしましたが、実現しませんでした。
政盛が重病に伏せる中、家臣たちはしきりに正誠を後継ぎに推しましたが、その後も跡継ぎを立てることはなく、戸沢家は存亡の危機に陥ります。そのため、老臣の片岡杢之助(もくのすけ)の独断により、1648(慶安元)年1月に、当時9歳だった正誠を江戸にいた政盛に面会させました。この13日後、政盛は江戸・桜田の藩邸で亡くなります。重臣らが画策し、正誠の家督相続を幕府に願い出ましたが、年少であるために許されませんでした。幕府が正誠の家督相続を認めたのは、その2年後の1650(慶安3)年8月になりました。
■新庄藩最大のお家騒動、片岡騒動と一族の成敗
幕府は、正誠の家督相続を許しましたが、1659(万治2)年までは国許(くにもと)に帰ることを許しませんでした。その間の藩政を担ったのは、戸沢勘兵衛、片岡杢之助、井関大学の三人の重臣でしたが、実権を握っていたのは政盛の側室の一人である天慶院(てんぎょういん)でした。その後、片岡家と戸沢家の間で熾烈(しれつ)な勢力争いが生じます。片岡家は、天慶院と手を結んで勢力を強めました。一方で戸沢家は、君主としての威厳を示し始めた正誠を中心として、藩士の大部分を味方に付け、勢力を強めました。
この対立は一層激化し、両派が介入した中渡(なかわたり)村(鮭川村)の百姓騒動で一気に爆発しました。そして、1660(万治3)年5月、江戸に上った正誠の内々の命令により、片岡一族は滅ぼされました。この事件を通して反対勢力を一掃した正誠は、藩政確立のために、総検地などの政策を次々と打ち出し、藩政の基礎を固めていきました。
―次回に続く
出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著
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