~郷土への愛着と誇りを高め新たなまちづくりへ~
第7回 凶作・飢饉(ききん)の頻発I
江戸幕府の成立後、家の安泰を図るため、江戸幕府徳川家の忠臣等との結び付きを強めた羽州新庄藩戸沢家。11代続いた藩政後期、多数の餓死者を出すほどの深刻な凶作・飢饉が再三にわたり領内を襲います。今回は、次回との2回に分け、当時の凶作・飢饉の惨状とそれに相対した生々しい藩政の姿を見ていきます。
■宝暦5年の稲作、深刻な凶作と飢饉のはじまり
1755(宝暦5)年、この年は春から天候が悪く、夏土用(※1)に至っても袷(※2)を着て耕作しなければならないほど冷涼でした。このため稲の生育は著しく遅れ、8月18日(旧暦。以下同じ)の夜には早くも霜が降り、稲や蕎麦などが被害を受けてしまいました。
新米収穫時期である9月下旬になっても未熟な青米が多く、10月27日にはかなりの降雪もあり、稲刈りは困難を極めました。刈った稲は屋内の梁(はり)や桁(けた)に架けて乾かしましたが、小さい家ではこれも難しく、稲を積み重ねていると中から蒸れてしまい、納豆のようになってしまう状態でした。
例年の領内全体の年貢米の収納高は平均10万俵前後でしたが、この年は4万1千俵ほどに留まりました。米不足に伴い「飯米(はんまい)渡しの制度」が定められ、藩士への俸給は、一律で「一日五合の飯米を給付する」ものとされました。翌年の正月には、町の酒屋17軒が相談し、生活に苦しむ領民たちに2月末まで粥(かゆ)を配りました。また、4月上旬からは、藩の事業として配給が継続されました。
一方、3月には、5代藩主正諶(まさのぶ)が領民を救うため、幕府に借米を願い出ました。借米は認められましたが、施政の責任から幕府より「差し控え(公式な場への出席の禁止)」を命ぜられてしまいました。
※1 夏土用…7月下旬〜8月上旬頃
※2 袷(あわせ)…裏地の付いた着物
・「豊年瑞相談(ほうねんずいそうだん)」
(新庄ふるさと歴史センター所蔵)
当時の清水川町の町人「福井富教」が、宝暦の飢饉について詳しく記している「豊年瑞相記」と同様に書かれた本。旧南山村(現大蔵村)の庄屋である柿崎弥左衛門家が所有していたもの。
※詳細は本紙をご参照ください。
■飢饉の惨状と餓死者供養
その後、お盆を迎える季節になっても、仏前に供える物は何も無く、多くの餓死者が出たことから、太田の瑞雲院(ずいうんいん)では7月13日から2日間かけて、餓死者供養の法要が営まれました。こうした間にも、各村や城下において、領内外から流浪してきた難民たちが炎天下で悪疫を患い、次々と命を落としました。
多くの餓死者は、はじめは接引寺(しょういんじ)(下金沢町)に葬られましたが、その数があまりに多く、野犬などが掘り返してしまいました。そのため、角沢街道脇の柳の木の下に、幅5尺(約1・5m)、深さ1丈5尺(約4・5m)の穴を掘って埋められました。この場所には、1816(文化13)年に「角沢街道の丸仏」が建立されました。
1756(宝暦6)年、当時の藩主正諶は、飢饉によって打ちひしがれた領民を奮い立たせるために、餓死者の弔いと、その年の豊作を祈願して、城内天満宮の「新祭」を始めました。これが現在にまで続く「新庄まつり」の起源であるとされています。
―次回に続く
出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著
詳しくは、歴史センターへ。
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