■多屋下(たやした)遺跡
国道141号・桐ノ木橋交差点を北進し桐木橋、桐木北橋を渡ると、市の玄関口にあたる大豆生田交差点が見えてきます。その東側眼下の水田に「多屋下遺跡」は広がっていました。
これまで、この場所は塩川に近いことから遺跡が存在する可能性は低いと考えられていました。しかし、令和3年1月~3月に実施した県営圃場(ほじょう)整備に伴う発掘調査において、塩川右岸の低位河岸段丘上、東西約30m、南北約120mの範囲に平安時代(9世紀前半から11世紀初頭)の竪穴住居跡28軒などが発見されました。
遺跡のすぐ東側を流れる塩川は、これまで度々、沿岸地域に洪水などの被害をもたらしてきました。多屋下遺跡を含む範囲も例外ではなく、昭和57年の台風10号では上流と下流の橋が流出し、遺跡のすぐ近くまで浸水する被害が出ています。現行のハザードマップでも最大0.5~3mの洪水浸水想定区域に指定されています。平安時代には川底が今よりも高く、集落の近くを流れていたと想定され、水害のリスクは高かったと考えられます。こうした場所でありながら、なぜ約200年間もの長期にわたり継続的に集落が営まれたのでしょうか。
遺跡の西側には、甲府・韮崎と信州・佐久を結ぶ主要路である「佐久往還」が通っています。この街道がいつ頃整備されたのか分かっていませんが、13世紀には若神子周辺が交通の要衝として栄えていたことが分かっています(注)。これまでの発掘調査事例から、佐久往還沿いの穂足地域には、平安時代初頭(8世紀末から9世紀前半)の遺跡が集中しており、9世紀中頃以降に開始される八ヶ岳南麓地域の開発の拠点であった可能性が高まっています。
同じ時期に主要街道沿いの特殊な立地に営まれた多屋下遺跡もまた、何か特別な理由のもと拓かれた集落かもしれません。
(注)須玉町(2002)『須玉町史通史編第一巻』
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