■県内最多の炭窯(すみがま)出土「中山工区内遺跡」
昨年の広報9月号で紹介した武川町中山工区内遺跡の発掘調査には、特徴的な成果がありました。それは、炭窯が43基発見されたことです。調査面積が広いこともありますが、一度の調査で確認された数としては、山梨県内でも最多になります。
炭窯は木炭を作るための施設で、11世紀代(約1000年前)に出現し、12世紀前半(約850年前)まで残ることが分かっています。中山工区内遺跡では、竪穴住居跡は11世紀代に減少していくので、ちょうど入れ替わるように登場したといえます。
分布は対象的で、住居跡は尾根の裾に沿うように集まるのに対し、炭窯は尾根裾から離れた平坦な場所に散在しています。これは、材料となる木の近くに窯を作り、周囲の木がなくなれば移動することを繰り返したためと考えられます。また、人の住む場所には木がなかったため、住居跡と炭窯の分布が分かれたのかもしれません。
調査した炭窯はほぼ全てが長方形で、幅は1.4~1.6m、長さは個体差が大きいものの4~6m台が多い傾向にあり、最大で10・5mの長さの窯も見つかりました。幅に大きな差がないことから、炭の長さには規格があったと推測できます。深さは0.3mほどで、底面は平らです。片方の短辺側に、薪(まき)に火を付けるための焚口(たきぐち)と呼ばれる半円形または長円形の浅い穴が付きます。窯の天井の痕跡がない点も共通し、薪の上に枯葉や小枝、土をかぶせて火を付ける伏せ焼きという方法が行われていたようです。
一方、窯それぞれの違いには全長のほか、焚口の手前に浅い窪みを掘るもの、底面の中央に浅い溝を掘るもの、焚口と反対側の壁に排煙用の小さな掘り込みを突出させるものなどがあり、一口に炭窯といっても、細かい違いが見られました。
中山周辺の遺跡でも炭窯が見つかっており、平安時代後期の炭の一大生産地であった可能性がありますが、その用途ははっきりしません。炭の大量消費としてまず考えられるのは製鉄で、鉄を溶かすために、高い温度を維持する燃料として使われました。しかし、広大な調査区から製鉄炉や鍛冶炉(かじろ)は見つからず、消費先は不明のままです。
※真衣野牧(まきののまき)との関連も含め、まだまだ分からない点は多いものの、豊かな山林が広がる土地であったことは間違いなさそうです。
※牧原(まぎのはら)周辺が推定地とされる平安時代の牛馬の生産を目的とした国営の牧場
※詳しくは本紙P.23をご覧ください。
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