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山中湖村 村史だより vol.9

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山梨県山中湖村

◆平野村に伝わる戦国時代の古文書(武田家印判状)
下の写真(本紙参照)は、現在寿徳寺で所蔵している武田家印判状です。元々は、長田開蔵家(平野のゆいの広場ひらりの西側にあった)で所蔵していました。文書の内容は、永禄11年(1568年)11月3日に平野村の住人13名に甲斐~駿河間の交通が不自由なので本栖と同じように諸役を免除するというものです。この文書の諸役免除(今で言うなら税金免除と考えてよいでしょう)の背景は、軍用道路工事にかかわったのでその見返りとされています。文書に名前のある住人の子孫は、現在でも平野に住んでいる方が多いようです。書かれている名前を挙げると、六郎右衛門、源左衛門、甚左衛門、七郎左衛門、与三右衛門、四郎右衛門、清右衛門、与三左衛門、善右衛門、宗右衛門、源左衛門、与一右衛門、九郎右衛門となります。文書を与えたのは侍大将山縣三郎右兵衛尉昌景(やまがたさぶろうえもんのじょうかさかげ)。竜の朱印が押してありますので信玄の承認がされています。 
山縣は、朱印状奏者(朱印状発行の担当)でもありましたが、当時男性平均身長150cmの中、130~140cmの小男で醜男(ぶおとこ)だったと言われています。しかし、戦いにめっぽう強く、武田の赤備え(あかぞなえ)(鎧(よろい)・兜(かぶと)や旗などが赤色主体=精鋭の印)の中心的な人物でした。徳川家康の四天王の一人井伊直政(いいなおまさ)は、武田氏滅亡後に武田氏の家臣を多く配下に付け山縣の赤備えにならい戦いに臨みました。 
この文書について江戸時代の地理書『甲斐国志』は、ヅナ越え(平野から富士スピードウェイ付近に出る峠のこと)工事のことと記述しています。村内の識者の中には、ヅナ越えではなく現籠坂峠の工事に関するものだと指摘する方もいます。ヅナ越えは、中世あるいは古代まで遡る可能性のある古道ですが、実際に歩いてみると大工事の痕どこにも跡は見当たりません。一方、現籠坂峠には大工事を想像させる切通があります。文化8年(1812年)に伊能忠敬(いのうただたか)が測量した大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)第100図から現籠坂峠の切通がすでにあったことが分かります。また、現在でも切通の静岡県側の沢途中まで平野地籍です。(旧平野村が切通の先まで土地の権利を主張した根拠が何かあるはずです。)また、今残る江戸時代の文書では、平野村が現籠坂峠切通工事をしたと裏付けるものは見当たりません。この文書に関する軍用道路敷設がヅナ峠に関するものなのか、現籠坂峠なのか、裏付けになる文書がないのではっきりしたことは分かりませんし、議論が分かれる所です。もし、関係する文書をお持ちの方がありましたらご一報いただけると幸いです。

次回は、平野村に伝わったもう一つの戦国文書についてお話しします。

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