■山中地区の石造物(4) 鯉の放流
この碑は、山中地区の明神前交差点そばの駐車場脇にあります。今では、2匹の鯉の石像の方が目立っていますが、元々はこの碑に由来します。この碑は、山中湖に魚類放流を示す最古の記録です。元来、この碑は、山中観音堂の前にありましたが、明治維新の時に山中浅間神社境内に移されました。この時に碑が2つに割れたと言われています。その後、長らくこの碑は忘れ去られていましたが、村内の歴史研究家によって発見され、この地に移されました。
碑文には、
と書かれています。
(正)は、富士講の一つ、丸正(まるしょう)講のことです。丸正講は、旧寄居町を中心とした埼玉県北部に勢力を持っていた富士講です。なお、富士講とは、江戸時代に大流行した富士山を信仰する講社のことです。富士講の大流行は幕府が度々禁止令を出すほどでした。八百八町と称された江戸の町に八百八の富士講があると言われました。現在でも、東京周辺には富士塚と呼ばれる小山がいくつか残されています。
碑文の中の中雁丸由太夫は、上吉田の御師の中で富士講の中興の祖である食行身禄(じきぎょうみろく)に対しただ一人理解を示し、宿舎を提供し、富士山入定(人々を救うために土中で絶食しミイラになった)にも立ち会った田辺十郎右衛門豊矩の系統の人です。十郎右衛門は、身禄の語った言葉を人々に伝え、遺品を所持し大いに栄えました。十郎右衛門の次男多吉は、他家の養子となっていましたが、母方の叔父の中雁丸家を継ぎ初代中雁丸由太夫豊宗と名乗りました。その後、二代中雁丸由太夫を弟(名前は不明)に譲り、自身は、父の名前である田辺近江を継ぎ、子どもには、田辺近江と小菊駿河家を継がせました。碑にある中雁丸由太夫は、三代目だろうと思われます。中雁丸家は、御師として丸正講の人々を自身の宿に受け入れ世話していたことがわかります。また、埼玉県北部まで信徒圏を拡大していったこともわかります。埼玉県北埼玉郡騎西町正能の諏訪神社には、嘉永5年(1852年)10月建立の富士登山大願成就を示す石碑があり、田辺十郎右衛門の曽孫三世仙行伸月(中雁丸由太夫応重)の文が添えられています。
一方、鯉奉納の碑文のうち、食行(じきぎょう)□□(麻佛?)は、身禄の子孫の名前かと思われます。食行身禄の実子には、うめ、まん、はなの3人の娘がいました。碑文の食行□□(麻佛?)は、まん又ははなの系列の者の可能性があります。
鯉の放流は、捕獲した魚類や鳥類を放すことで殺生を戒める、放生会(ほうじょうえ)に倣う行為であったと考えられます。富士講の人々からすれば、富士八湖の一つである山中湖は作薬龍神(さくやくのりゅうじん)の棲む神聖な場所です。この水で禊を行い、鯉を放ち、功徳を得ようとしたのかもしれません。
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