■山中地区の石造物(1)
今回号からしばらく令和5年度に調査した山中地区の石造物のうち、特徴的なものをお伝えします。下の写真は、籠坂峠、杉崎ガラス店近くの道路脇にある石仏です。この石仏は、宝暦5年(1755年)11月に造られたものです。実にバランスの悪い石仏です。丸い頭のため最近まで地蔵と認識されていました。しかし、よく見てみると蓮の花を持っており、首には石を継いだ跡があります。実はこの石仏は馬頭観音として造られました。しかし、頭が無くなり、誰かが可哀そうに思ったのでしょうか、地蔵の頭を付けました。それは江戸時代の終わりのことと思われます。文政12年(1829年)の文書にはこの石仏は観音と書かれ、明治初めの土地台帳には加古坂神社の場所が地蔵敷地として登録されています。元々、石仏があった場所は現在の加古坂神社の少し富士山寄りです。この石仏のすぐ脇には現在の加古坂神社の前身である風神の小さな社がありました。更にすぐ横には杉崎さんのご先祖が峠の茶屋を営んでおり、峠を越えてくる旅人が喉を潤していました。なお、旅人が飲んだ水は現在の三島由紀夫文学館駐車場の崖下から湧出する泉の水でした。
話を石仏に戻しますが、この石仏は名工揃いだった長野県高遠の、水上村奥右衛門の作と思われます。全国的に石仏製作は元禄(1688~1703年)以降盛んになりました。山がちの高遠藩では、藩の政策として石仏に適した高遠石と言われる輝緑岩などの良質の石がたくさん取れ、田畑も狭いため、「旅稼ぎ石工」を奨励しました。「旅稼ぎ石工」には山間の二男以降の男性が多かったようです。高遠石工の痕跡は青森から山口まで残っていますが、今でも御殿場を中心とする駿東地区に石造物の名作が残っています。この石仏背面の刻字によれば、高遠の石工が馬を連れて雪の籠坂峠に差し掛かった宝暦4年(1754年)冬、余りの寒さと雪のため馬3頭が急死してしまいました。そこで、この籠坂峠に亡くなった3頭の馬を供養し、道中の安全祈願、馬の守護としたものがこの石仏です。宝暦4年冬~5年までは気温が極端に低く東北地方を中心に被害が出、その後の宝暦の飢饉(ききん)につながりました。緯度の低い寒冷地である山中湖でも人々の生活が大変だったことが想像されます。石仏の台座には、石仏造りに賛同した山中村、小明見村、小沼村、谷村、夏狩村、十日市場村、川口村、舟津村、長池村、内野村、忍草村、須走村、仁杉村の人々の名前が刻まれています。このこと以後、高遠の石工と山中村は縁が出来、山中村にはいくつかの石造物が残されています。諏訪神社の御旅所道路側にある道祖神や庚申供養の四面塔は、製作年代とその出来栄えから高遠の石工のものかも知れません。
明治22年(1889年)頃の道路建設に伴い峠位置が変更になりました。この時、この石仏も現在の場所に移されたと思われます。
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