■山中地区の石造物(2)
今回は、山中口留番所(かつては関所)の痕跡となる石造物に関わるお話しです。右の写真は、山中口留番所の番人をしていた大山氏の墓群です。全部で13基あります。山中湖の古くからの住民の旦那寺は、多くが寿徳寺です。一部の方々の旦那寺は上吉田の上行寺、都留の宝鏡寺、下吉田の月江寺です。大山氏の旦那寺は、都留の浄土宗の西凉寺でした。13基の墓石には浄土宗の戒名特有の「誉」の字が見られます。秋元家は、寛永10年(1633年)~宝永元年(1704年)の間に郡内を領しました。その後、郡内は幕府領となります。この時、大山政右衛門という人物が宝永2年(1705年)あるいは宝永3年(1706年)に谷村代官所の山中口留番所の番人として召し抱えられました。大山政右衛門は、秋元家に仕えた大山瀬兵衛政明(元禄13年・1700年死亡)の子で、秋元家が川越に移った際に浪人になっていたと思われます。代官所の番人としての大山氏は、明治時代初期の8代目大山光輝まで続きます。
文献として山中番所が初めて確認できるのは、寛永14年(1637年)です。秋元藩時代の大山氏以前の番所役人として鈴木与次右衛門、池田与惣兵衛、希代与五左衛門の名前が伝わっています。山中観音堂には大山氏以前の番所役人のもので、延宝4年(1676年)の銘があり「誉」の字のある墓石があります。
山中口留番所は上屋敷(往還をはさんで富士山側)、下屋敷(湖側)に分かれていました。上屋敷には番所役人が、下屋敷は村役人2人が詰めていました。番所を通過できる時間は、概ね日の出から日の入りまでです。山中口留番所は、明治6年(1873年)7月4日に藤村紫朗県権令(今の知事に当たる)が出した番所・矢来(やらい)(番所の柵)の取り払い命令まで続きました。山中湖で最高位の武士身分で20俵取(高20石と同じ程の収入)だった番所役人大山氏は、番所廃止後は谷村に移り、その後に出身地の長野県伊那に転居したようです。一方、長く使われた番所の建物は、安政3年(1856年)12月12日四ッ半(だいたい23時頃)から六ッ(だいたい6時頃)までの山中の大火で焼け落ちてしまいました。この日は、激しい富士おろしが吹き山中集落の端から火がつき、70軒以上も焼けました。その後、番所の建物は村々から建材が出され小ぶりになりましたが再建されたと思われます。番所が廃止された時、建物は解体されましたので、現地には残っていません。解体した番所の建材は、餅つきの臼をコロにして下吉田に運んだと言われています。現在、番所だった建物は下吉田の東町に残っています。写真は、再建築された武藤紘八家の内部の様子です。武藤家では昭和43年に2階建てに改築し番所の外観は失われましたが、梁はそのままで番所当時の様子を見ることができます。現在、現地に残る山中口留番所の痕跡は、冒頭の墓石群と「大山氏」と刻まれた庚申塔及び番所の礎石らしき石くらいしか残されていません。
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